表現としての批評

http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080104/1199387682
作者は作品を批判されると傷つくので自重してください的なネタについて、「批評」を志向するブロガーの立場から軽く言及してみます。こういう話に口を出すのは、つまらない小説しか書けない小説家が「面白い小説の書き方」を語るようなもので、個人的には非常にみっともないと思うのですが、みっともないことをするのが割と好きなので気にしないことにします。


批評の目的とは何か。色々考えられますが、広く同意を得られそうなのが「現在の作品の欠陥を指摘して、将来もっと面白い作品が生まれるように作家を導くこと」でしょう。橋本治も同じようなことを言っているし、理解は出来ます。
ただ、僕にとって批評とは、第一にそれ自体が小説や映画と同じくひとつの表現(創作)であって、表現の結果として作家の役に立つことがあったとしても、作家のために批評をするわけではありません。
この認識に立てば、文章の上手さ・発想の面白さも批評の価値基準に組み込まれるわけで、ある意味しんどい考え方です。しかし、批評をする人は作家の方を見すぎてはいけないと思うんですよ。例えば、黒澤明監督は批評家に対して「こっちは赤く塗ったつもりなのに、青くないって怒られるんだからさ」と批判しましたが、この言葉を聞いて小さくなってはいけない。監督の考えがどうであれ、青く塗る方が良いと思ったのならそう書くべきである、と僕は思います。作家の欲求を叶えるために作品があるわけではないのですから。


批評が表現である、ということについてもう少し。
批評と感想を隔てるものとして、構築主義的な認識があると僕は考えています。ある作品を見て「面白い」と感じること、この感情は個人的なものではなく、文化や環境、そして過去に触れてきた作品によって形成されたものであるという認識。これがいわゆる構築主義であり、批評を行うためには絶対に必要なものです。
逆に言えば、文化的に近い集団とはある程度感情を共有できる、と僕は考えます。もちろん「全て」ではない、けれど「感想は人それぞれ」とも思わない。批評は決して「ひとりごと」ではなく、常に他人の方を向いています。その意味で批評は表現なのです。
ただ、僕も含め、きちんと他者とコミュニケート出来る論者はめったにいません。客観的な記述を目指す以上、どうしても言葉遣いが硬くなってしまい、結果として読者を遠ざけてしまうというジレンマを抱えているわけで。