そろそろ「従軍慰安婦」問題について一言いっておくか

屋上屋を架すつもりはないので、最近話題の論点からはやや外れた部分について書きます。「一言」といっておきながら全然ひとことで終わらないのはお約束ということで。


1.国家間の問題?被害者はどこにいった?
90年代における「アジア国民平和基金」が挺隊協のような慰安婦支援団体からも批判されたことは有名ですが、この基金を推進した側としては元「慰安婦」は高齢化しているので、たとえ拙速であっても今のうちに補償しなければならないという判断がありました。これに対して挺隊協などは民間基金ではなく政府による公的な基金でなければならないとして、元「慰安婦」の利益よりもむしろ「政治的な筋を通す」ことを優先したわけです。私としては前者の立場により共感します。
2000年代以降では現在がもっとも「慰安婦」問題に注目が集まっているように思うのですが、その割には、みなさん妙にのんびりしているように感じるのは私だけでしょうか?それとも、もはや被害者存命中の問題解決など不可能である、と割り切っているのでしょうか?その場合、いったい「慰安婦」問題とは何に対する・いかなる解決を目指した問題なのでしょうか?
現在の「慰安婦」問題は自国政府に対する態度を表明するための踏み絵のようなもので、仮に韓国人元「慰安婦」を問題にしているように見えても、実際には日本国内で完結した内向きの議論になっていると思います。私見では、「慰安婦」問題のやっかいなところは「日本語によってだいたいの部分が研究出来てしまう」ところにあって(それ自体が植民地支配の遺産なのですが)、その場合、元「慰安婦」自身にとって「慰安婦であること」はいかなる経験であったのか、それは現在をどのように規定しているのか、という視点がしばしば抜け落ちてしまいます。結局のところそれは「日本人による、日本人のための日本史」でしかないわけです。歴史系の学会もこの点ではあまり変わりません。2000年代に入ると、扶桑社の「新しい歴史学のために」が検定を通過し、その関係で「教科書のなかの慰安婦問題」が毎年のように取り上げられるようになるのですが、韓国の教科書と比較して、日本の教科書の「慰安婦」への言及の少なさを嘆いてみる、というような言及の仕方がほとんどでした。結局のところ、(特に関西の)学会では「慰安婦」問題は自国の政府を批判する政治的賭け金以上の意味はもたなかった、ということなのでしょう。


2.朝日新聞の過大視
「吉田証言」に関する朝日の報道と国連のクマラスワミ報告・マクドゥーガル報告までを直結させるような主張は、私には「コミンテルンの陰謀」と同レベルの話に思えます。少なくとも、当時の人々が受けた衝撃を説明するものではまったくないでしょう。丸山真男門下の英才・石田雄をして「敗戦によってアイデンティティの危機に直面した軍国青年として、何が戦争中間違っていたかを反省する動機から社会科学の研究に志した私としては、半世紀近くもこの深刻な問題を社会科学的に究明する責任を果して来なかった点を深く恥じなければならない」(『社会科学再考』1995年)と言わしめたこの問題の衝撃を、いち新聞の力に帰せしめるわけにはいかないと私は思います(別に朝日を擁護しているわけではないですよ。念のため)。
少なくとも91年から始まるユーゴ紛争、92年から始まるボスニア紛争で繰り広げられた戦時性暴力が国際的に問題視され、それを違法なものとして裁こうとする機運が高まっていたことを「慰安婦」問題の背景として押さえておく必要があります。こうした背景を朝日新聞自身も忘れ、「慰安婦」問題は我々が盛り上げたのだと思っているのだとしたら、それは僭称というべきでしょう。


3.国家間の問題とすることで見えなくなるもの
慰安婦」問題の参考書としては現在でも吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)がベストだと思っているのですが、いま読み返すと結構いろいろな発見があります。特にぎょっとするのは188頁以下にあるオランダ人「慰安婦」の事例。
これは日本軍が「慰安所」を設置するため抑留所に収容されていた女性を「慰安婦」として連れ出そうとする事例なのですが、抑留所のリーダーたちが抗議して暴動が起こります。その三日後にまた軍人がやってきて、「志願者」を出せば最初に連れて行った女性は返してやる、と言いました。その結果、売春婦だという噂のあった数名の女性が「志願者」として連れて行かれ、「慰安婦」として働くことを強制された、というわけです。
この「志願者」選び出しにどのような力が働いたのか、ということが私にはとても重要なことのように思われるのです。それは抑留所にいた他のオランダ人たちの責任を問うことにも繋がるのかもしれないし、「売春婦という噂」が「こいつは慰安婦になっても仕方ないやつだ」という認識へと繋がっていく差別の問題にもつながるのかもしれません。
慰安婦」問題を国家間の問題としか見ない人、あるいは「慰安婦は売春婦のことである(から何の問題もない)」と考える人にとっては、上記の話はどうでもいいことなのでしょうが。


4.戦前からの連続性において「慰安婦」問題を考えることが必要ではないか
「日本軍の体質の問題」として「慰安婦」問題を考えようという人は結構いるのですが、日本軍の(あるいは戦前日本社会の)暴力性・マッチョイズムを指摘するだけでは、おそらく問題の半分くらいしか捉えられないように思われます。実際、大正〜昭和戦前期というのは「修養」「人格」の重要性が唱えられた時代であり、公娼制度に対して「女性の人格を否定」するものであり「男性を堕落させる」ものとする批判が激しく行われた時代であったからです。「慰安婦」制度に対して嫌悪感を示し、利用しなかった男性もいたわけで、そうした人々も(利用した人々と同じく)「時代の子」であったと言えるのではないでしょうか。
ところで「慰安婦」に関する研究書にはしばしば「『慰安婦』に対して心中を迫る男性」が登場します。少なからぬ将兵が「慰安婦」を心の支えとし、だからこそ心中を迫ったのです(田中克彦氏が『従軍慰安婦靖国神社』で「『慰安婦』は将兵にとって心の支えだったのだから、謝罪するよりもまずは感謝すべき」と述べていますが、愛情を寄せながら心中を迫るストーカー男の論理に似ている)。こうした「心中」を生み出す背景についても考えてみる必要があるでしょう。私見では「修養」「人格」を重視し、「慰安婦」制度に否定的だった人々こそが「心中」を迫ったのではないかと思うのですが、とくに根拠なし。


・上記の問題に関連する資料
「これまでお逢いしたことのない方々と話しているうちに、思いだしたことがあった。それは、兄の戦死後、そのことを伝えきいて来られた友人たちのうち、お一人が入隊後によこされた一通の手紙のことだ。 それは、強烈な内容だった。

自分は今、慰安所で淪落の慰安婦を抱いている。この女は、一平卒である自分にあたたかい。ともに身の不幸を嘆きはしても「死ね」とは言わない。だが、いまの世の女たちは、母も、姉妹も、恋人も、友人も、みんな「勇んで戦争に征け。そして名誉の戦死を死ね」と言う。言わないまでも、言うにひとしい態度をとる。これは何だ。なぜ慰安所の女だけが、「いのちを大切にせよ」「どんなことがあっても死ぬな」と言ってくれるのか。自分はもう、愛を口にする女たちを信じない。

18歳のわたくしは「女を抱く」といわれるだけでもう素直に読めなかった。「なんでこんな手紙くれはるか」と不愉快で、その悲痛な、重大な意味に気づく力がなかった。」
(岡部伊都子「生きる こだま」1992年)