「アジア主義」の終了宣告?

嵯峨隆『頭山満』を読了。アマゾンレビューで「古い金庫の立派な鍵を開けたら中身は空っぽだった、ということを確認した気分」と書かれた方がいますが、まったく同感です。竹内好はかつて「侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされるアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる」という危うい表現でアジア主義の重要性を指摘しましたが、こうした言葉が我々の思考を喚起する力も、すっかり弱くなったように思われます。

頭山満によって代表される「アジア主義」が輝きをもって受け取られた時代は戦後にも確かに存在していました。戦時中の「大東亜共栄圏」とは異なるアジア連帯の可能性は存在していたのであり、日本が軍事力の代わりに経済力によってアジアを支配しようとしている現在(70~80年代のこと)こそアジア主義を学ぶ必要があるのだ、云々。しかしそうしたアジア主義の輝きは色あせ、とうとう息の根を絶たれたという印象を本書から受け取りました。

本書が明らかにしたことは、以下の点であろうと思います。

第一に、アジア主義とはきわめて漠然とした思想であり、内側の敵(西洋を崇拝する欧化主義者)に対する警戒心をあおる一方で、具体的に「何をなすべきか」をはっきりと語らないこと。別の言い方をすれば、「敵」を打倒したあとの展望が見えないこと。

第二に、頭山をはじめとするアジア主義者が「何をなすか」を実際に規定しているのは、ウェットな人間関係や「あいつは大人物だ」的な人格への評価であり、思想ではないこと。

第三に、アジア主義者は大事な場面では沈黙するが、沈黙によって人を動かす傾向があること。

第四に、アジア主義者が戦前の日本で持ちえた影響力は、結局のところアジア主義という思想の力ではなく、アジア主義者という人のもつ魅力であったこと。

第五に、アジア主義は最初から最後まで「アジアの指導者・日本」を前提としていたこと。

要するに、現代人がアジア主義から学ぶべきことは、特に無いように思われます。

たしかに西洋文明は万能ではありませんから、西洋文明を学ぶだけでなく、足元の日本・東洋を見直すべきだというアジア主義者の主張がもっともらしく響くことは確かです。そこまではよいとして、じゃあ西洋文明から学んだ「自由主義」やら「立憲主義」やら「民主主義」やらを捨てて、東洋文明の「王道」「民は由らしむべし」に立ち返るのが望ましいのかと言えば、当然そんなことはないでしょう。結局われわれは西洋文明を基軸に据えて、それを活かすために東洋的な要素がどう活かせるのか、ということを考えるほかないわけです。アジア主義を学んでも、彼らの話はあまりに大雑把すぎて、西洋文明と東洋文明の関係をより厳密に考えていくことには役立たないと思うんですよね。

かつてシンガポールが「アジア的価値」を大々的に宣伝したり、また中国も「人権や民主主義は西洋の専売特許ではない」として陽明学を称揚したりしましたが、それらは結局、既存の権威主義体制を擁護するための方便に過ぎないものでした。建前としては「西洋文明の弊害を除く」ためにアジア的価値を持ち上げたわけですが、そこから西洋以上に普遍的な文明が生まれる可能性は、いっこうに見えてきません。アジア主義に何等かの可能性があるというならば、このことを正面から受け止めるべきでしょう。

どの国にも土着の伝統文化があり、それが西洋に由来する人権や民主主義の観念をうまく機能させるうえでの手助けになるということは大いにあり得ます(日本が戦後、民主主義の優等生になったのも、そういう事情があるのでしょう)。ただ、その場合でも、伝統文化それ自体に普遍的な価値があるとは言えません。戦後の「アジア主義」が空回りして見えるのはこの点で、どういった実質的な価値を「アジア」に見出し、何をもってアジア民族としての自負の拠り所とするのか、さっぱり見えてこないのです。

中江兆民などは今読んでも勉強になるところがたくさんありますが、それは兆民が西洋文明と真剣に格闘し、西洋文明「以上の」文明を日本で実現する道を探そうとしたからであって、決して西洋文明「とは別の」文明を模索しようとしたからではありません。