他者と批評理論

私は丁寧語で書いている作品についての言説は余り信じられなくなってきている。丁寧語で書くということは、そこにはその文章を読む読者が想定され、更にその読者は「話せば解る他者」という想定がなされているだろうから。

こぐにと。 cognit. - 美少女ゲーム年代記

僕が普段丁寧語で書いているのは、その方が伝わりやすいと思うから。それを突き詰めれば読者を「話せば解る他者」として想定しているというのも、一面の真実は突いていると言えるだろう。ただ、それがいけないことだとは全く思わない。
他者を理解できないものとして想定する、というのは非常にポストモダン的な発想である(引用記事の筆者の意識は別として)。それは確かに正しい。が、言うまでもなくそれは思想として何の意味も持たない。何故なら、僕たちは言葉が関係性によって生まれること、自分が意図したようには伝わらないことを知っていても言葉を発せずにはいられない、つまり、一意的ではないものを一意的であるかのように書かざるを得ないというジレンマが存在する。ポストモダンというのはそういった言葉の多義性を示すことによって、逆説的に意味を決定する話し手および受け手の責任、言い換えるなら他者に対する無限の責任を浮上させることに意味があるのだ。
そこで読者を想定し丁寧語を使うのも責任の取り方としては理に適っていると思うのだが、如何だろうか。要は読者に合わせた文体を選べば良いというだけの話。少なくとも「どうせ伝わらないから」とニヒリズムに陥るよりはよほど誠実だろう。
以上、言い訳終了。普段の文体に戻しますね。
さて、引用記事は概ね小林秀雄の主張に依拠する形で書かれています。確かに小林秀雄流の作品に対する極度の密着は、他のジャンルとの比較に目が行き過ぎて、映画なら映画狂、文学なら文学狂に徹しきれない作品論が目立つ昨今では見習うべきところが多いと思います。
批評と自意識が区別できないというのもその通りでしょう。ただ、そうして行われる批評は自分が知りうるものだけを前提にしているため、柔軟性に欠けることに関しては注意を払っておくべき。そりゃあまあ、小林秀雄くらいの知識があれば自問自答だけで批評が出来るのかもしれませんけどね。
また、批評を通して自意識を発見しようとしても、批評が作品と読者の共同作業である以上(しかもその「読者」には自分以外の人間も含まれる)、自意識だけを都合よく抽出できるのだろうかとも思います。要するに批評の言葉というものは「私」と「作品」、「社会」との関係性から生まれてくるものであって、批評を通して見る「自意識」も「作品」や「社会」など外部によって構築されたものでしかありません。
「自意識」に限らず、「作者」も「作品」も全て構築されたものであり、絶対的に正しいものはないという立場に立ってからはじめて、自分なりに納得の出来る理論の組み立てが始ります。そこには「正しくはないこと」を根拠にしていかなくてはならないという、批評の持つ倫理的責任が存在すること。それは原罪にも似た、批評の宿命であると僕は思います。