『かんなぎ』第1話についての雑感

かんなぎ』ほどそれを語るための視点に不足しない作品もめずらしいでしょう。
「シリアスだと思ったらギャグだった。ギャグだと思ったらシリアスだった。そんな漫画を目指して」書かれているという原作との相違点を手がかりにしてアニメの独自性を探っていくのか、それとも「世界のヤマカン」の作家性を見出すのか、あるいは脚本・倉田英之の日常描写に対するこだわりを『かみちゅ!』から順番に語っていくのか、とにかく色々考えられます。ミュージック・クリップ風のOPで顕著ですが、全般的にキャッチィかつジャンル横断的な要素が多く、作品外の視点から語ってみようという人が散見されるのも当然であると言えるでしょう。
しかしまあ、他人と同じことをしても面白くないので、僕はできるだけ作品それ自体に密着し、上で挙げたいくつかの視点について考えてみたいと思います。自他ともに認める「魔球使い」山本寛が普通のラブコメディでどのような演出をするのか、「原作から引くことはしないが、足すことはある」とどこかで聞いた気がするけど何を足すんだとか(適当だな)、要するに『かんなぎ』ってどういう作品なの?とか、そういうことを書いていく予定。

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とりあえず演出論的なところから書いていきましょう。一見して明らかな傾向としてはまず、原作においては分割とモンタージュで表現されていた動きを、ロングショットのフレーム内での演技でひとつにまとめている、という点が挙げられます。例えば中盤、神社でナギが「ケガレ退治」をする場面。

このカットからはOPとも共通する、演技によって表現することへのこだわりが見られるとともに、オオヌサを振り回すナギをちょっと引いた場所から見つめている仁の冷たい目線を上手く表現していると思います。また、僕に見落としがなければ(最近乱用され気味な)広角・魚眼レンズが1度も使われていないこと、単純な切り返しが多用されていることなどから判断して、キャラクタの演技を見せやすく同時に作画の労力を節約できるレイアウトが好んで使用されているようです。
演技という点での今回の白眉は、仁が精霊像を完成させ、それを持ち上げようとする場面ではないでしょうか。像を持ち上げようとするときに鞄の肩紐が落ちそうになって、それを手で直してからもう一度持ち上げるという演技が描かれているのですが、ノイズが多い・滑らかではないものの方が「本当らしい」と感じる逆説を上手く利用しているように思われます(要するに「加工された」ニュース映像よりも「そのままの」ホームビデオの方が本物らしい)。
「演技をすること」と同じくらい重要な点は「何もしないこと」、つまり「タメ」に当る部分です。ほんの一瞬だけタメてしぼりだす声の演技、先述した精霊像を持ち上げる描写のようにワンクッションを置いたキャラクタの動作、そして沈黙と環境音の強調。ここでは例として冒頭の場面、仁とナギが神社で初めて出会う場面を取り上げてみましょう。

街の俯瞰からカメラは神社の境内へと迫って行き、その中で遊ぶ仁を捉えます。やたらと身体を動かす仁。この、説明的ではあるけれど動的な空間が、仁の肩にナギが手を触れた瞬間に静止し、カメラは二人の側をゆっくりと通り過ぎていく。その間に風の音がだんだん強くなっていき、感情の高まりが表現されます。ナギが側にいる間はそれまで聞こえていたセミの声が止んでしまい、いなくなると再び鳴きだすということも重要。音によって世界の連続性と断絶を表現しているわけです。
あと、イマジナリーラインが割と簡単に越えられていることも少しだけ気になりました。神社の境内でナギがケガレに憑かれる場面だと、ケガレに憑かれた次のカットで一度越え、その後、仁を蹴り飛ばすカットでもう一度越え、という具合に自由自在。もともと大した理由のない(というか視聴者に対して過剰に気を遣った)ルールなので絶対視していないということなのか、イマジナリーラインを越えるということに意味を持たせているのか、ちょっと判断がつきません。たぶん前者だと思うのですが……。
原作の「げに恐ろしきは現代人よ」という台詞を特に必然性もなく「げに恐ろしきは地方行政よ」に変更するなど、気づいたら面白いけど、気づかなくても害はない(漢方薬みたいな)小ネタが散見されるのも興味深い点です。
OPについては詳述する余裕がないのですが、ナギのダンスパートと日常パート、両方合わせて一本のミュージック・クリップなのだろう、と思います。

画面の両端に示されたフィルム(サウンドトラックはどうした)はその日常が「撮られたもの」であることを表しているので、ミュージック・クリップで時々見られる「撮影の楽屋裏を紹介」的な趣向なのかな、と。


ところで、小説の多くが過去形で書かれているように、近代以降の物語は基本的に「虚構の回想」であると言えます。その中で物語の時間は必然的に、重要な時間とそうではない時間とに区別され、重要でないと判断された時間は省略されていきます。残った時間も、その重要性に応じて引き伸ばされたり短縮されたりすることでしょう。
ここで問題となるのは、従来「どうでもよいこと」「退屈なこと」として省略されてきた時間の中に本当は面白いことが隠れているのではないか、本当は大切だけど描きたくないので描かなかったことが紛れ込んでいるのではないか、ということではないかと思います。
「アイドルはトイレに行かない」と言いますが、『かんなぎ』ではOPでアイドルに仕立て上げたナギをトイレに行かせてしまう。また、少年少女だけの生活を描いた作品は無数にありますが、生活を維持するための最低限の経済活動さえも無視するのが一般的。それなのに『かんなぎ』はナギの服と下着を主人公に買いに行かせる。
こういった描写は、原因があって結果が生じるという首尾一貫したストーリィ構成をある意味ではかき乱すものであり、首尾一貫性を求められない「日常系」作品だからこそ可能なのである、と言えるのかもしれません。しかし、『ひだまりスケッチ』や『らき☆すた』などの女子高生のゆるい日常を描いた(と考えられている)作品でさえも省略されてきた時間を表現することに成功しているという点は高く評価するべきだろうと思います。少しメタっぽいですが、「批評家」山本寛(本人は認めないでしょうが)の本領発揮といったところでしょうか。もうちょっと具体的に言えば、アニメを見てアニメを作っている事への批判が含まれているんじゃないなかぁ、と。ヌーヴェルヴァーグがやりたいのでしょう、たぶん。