「好き嫌いは人それぞれ」の無意味さ

「祈りの物語」としての『鋼の錬金術師』 - tukinohaの絶対ブログ領域
↑の記事と少しだけ関連した話です。殴り書きですが、今回はアブストラクトを示すだけにしたいと思うので。
「好き嫌いは人それぞれ。尊敬する批評家がある作品を名作だと言ったとしても、その評価に従う必要はない」。これを真理として認めることに異論のある人はめったにいないでしょう。しかし、これって意味のある言葉なのでしょうか?
現実に「名作」と呼ばれる作品が存在し、過去の有名な作品が「古典」としてもてはやされ、僕たちは「あれが好きだ」「これが好きだ」という自分の気持ちを疑わない。他人の評価は相対化するくせに。作品評価を「人それぞれ」と相対化することによって明らかになるのは、皮肉にも相対化し得ない評価の存在です。そして、その相対化し得ない評価と真剣に向き合うことが相対化の目的である、と僕は考えます。
矛盾している、間違っているので良くないという話ではありません。つまり、相対化とは技術であり、過程であり、結論でも思想でもないということです。もし「好き嫌いは人それぞれ」を結論として、そこで立ち止まったとしたら、あなたの批評に影響を与える「権威」の存在に対して無自覚になり、「人それぞれ」どころか逆に他人の評価に依存した批評となってしまうでしょう。身近なところでは「作者の言葉」なんて結構な権威ですね。なぜ僕たちは「作者の言葉」を正しいと感じるのか、公式サイトの情報を真実として受け入れ、2次創作で追加された設定を認めないのか。このような疑問を客観的な視点で考察するための基礎となるのが相対化ではないだろうか、と。
同時に、「好き嫌いは人それぞれ」言うことは、自分の下した評価に対する責任を「人それぞれだから」と放棄するのではなく、むしろその逆で、批評に対する自らの責任を明らかにすることを意味しています。
「好き嫌いは人それぞれ」と口にする時、言外に「作品の面白い/面白くないは決定不可能である」ということを認めています。しかし、現実に僕たちは決定不可能なものからひとつを選び、決定する。それは自らの倫理観・イデオロギーの表現に他ならず、そこに責任が存在しないと言えるのでしょうか?
うーん。微妙にまとまらないのですが、あえてまとめるならこんな感じ。
「『好き嫌いは人それぞれ』は批評の自由さを保障するわけでも、他人への責任を逃れるための言葉でもない。全く逆で、自分の不自由さと他人への責任を自覚するための言葉であり、その言葉の意味は、自覚した後にどのような批評を行うかで決定される」