幕末の借金を大正に取り立てる

「道義埋没の塚△浅野候を相手取る」(『万朝報』1914年4月30日)
和田某という人物の祖父は元郡山藩の納戸役(会計掛)をつとめ、のちに大阪へ出て商人となり巨万の富を得た。彼はその後、芸州藩(浅野家)の御用商人となったのだが、慶応三年の師走、当時は藩主の世子(跡継ぎ)であった浅野長勲の結婚式のため銀百貫を貸した。しかし返済が行われないままウヤムヤになってしまい、法律上も時効となる。しかし和田某はあきらめず、宮内大臣への陳情を行っていたという。この年、和田某は弁護士・角岡某とともに、浅野家に対して借金の返済を要求。むろん法律上の根拠はないため、次のような主張を行った。
1913年6月、浅野長勲候の孫・長武のもとに伏見宮博恭王の王女が嫁ぐという噂をきいた。「人道を解しない者をして、女王殿下に祖父と仰がせ奉る事は畏れ多いことだ」。和田某は内大臣府へ御降嫁中止の要請を行った。これに驚いた浅野家では和田某に対して家扶金の名目で100円を与えたが、受け取る理由がないので突き返した。あくまで借金の返済を要求する。これが受け入れられない場合、吉良上野介の墓の横に「浅野候道義埋没の塚」と題する石碑を建立する予定である(忠臣蔵の浅野家は、この記事の浅野侯爵家から見て分家にあたる)。
この要求が通ったかは不明であるが、華族に対するこうした超法律的要求は、彼らが皇室に近い位置にいるだけに頻繁に行われていたのではないだろうか。