田中ロミオ『人類は衰退しました』第8巻

個人的には今までで一番良かったと思うのですが、皆さんはどうでした?
扱われているそれぞれのネタは既視感があるというか、いつものロミオ節だなという感じなのですけど、組み合わせ方が抜群にうまいですね。第7巻の学級崩壊に関する話があまりひねりのない話だったので、第8巻の序盤でヤンママが出てきたときは「またか」と思ったのですが、まさか最後にあんな展開になるとは……。ちょっとほろりとくる、ある意味『人退』っぽくない話です。

人類は衰退しました 8 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 8 (ガガガ文庫)

ところで。
『人退』が衰退しつつある未来の社会を舞台にした現代社会の風刺劇であることは明らかであるとして、「普通ではない例外的な状況のなかにこそ物事の本質が現れる」というひねくれた精神は、非日常を取り扱う大衆作家にとって不可欠な要素であると言えるでしょう。それは、キルケゴールも「例外は一般的なものとそれ自身について説明する。一般的なものを正しく研究したいなら、本物の例外をしっかり調べなければならない」と述べているように(そしてシュミットやアガンベンがそれを引用しているように)社会のリアリティを描くうえではむしろ一般的な方法ですが、とりわけ田中ロミオにおいてそれが目立つことは確かです。『家族計画』や『CROSS†CHANNEL』『最果てのイマ』などもまた、主人公が属しているコミュニティがまさに崩壊の危機にあり、それを維持するため主人公が行わねばらならない試行錯誤を通してそのコミュニティの本質を描き出しています。
私にとって特に興味深く感じるのは、「自動化された人間」とでも言うべき人々の描写です。この『人退』第8巻でも、生命の維持に必要な動作をすべて自動化して意識は夢の世界にもぐり続ける人々が描かれています。彼らは他人に会えば挨拶もするようにプログラムされた「普通な動作ができる人」なのですが、それにも関わらず、主人公に一見して異常だと気付かれてしまうのです。

向かう先はトイレや水場、炊事場といった違いがありましたが、ひどい時には歩く動作とタイミングがまったく同期してしまっている人たちもいました。人間の目というものは、そんな不自然をかなり鋭敏に察知するものです。(p234)

『C†C』の群青学院の生徒や『イマ』の主人公を想起させるような文章ですが、「普通であることができていない」という点からみれば『AURA』の中二病とも関連してくるでしょう。人と会えば挨拶することができる、料理をすることもできる。しかし、「人間の目」は「不自然を鋭敏に察知」して、普通ではない人間を容易にあぶりだしてしまう。田中ロミオにとって普通の世界とは膨大な努力によってかろうじて成立する、危機と隣り合わせのものなのでしょう。
しかし、こうした「普通」であることの難しさ(有難さ)を悲観的に解釈して世界の破滅を幻視するか、それとも破滅が何度でも回避されて衰退に留まる世界を描こうとするかは決定的な違いであって、田中ロミオが後者を選択したことは彼の作家としての特性を考えるうえでとても重要であるように思われます。

田中:まず、意識的な「隠れおたく」ではありましたね。……僕は、高校では通過儀礼みたいなものを取り落すことがないよう、大分気を遣っていたんですよ。……クラス内に、一応、おたく趣味のグループがあるにはあったんですけど、僕は彼らの無防備さが「外」から見ていて物凄く嫌だった。何でそんな、自分から不幸を招き寄せるようなスタンスをしているのかなと。……自分もおたくではあったのだけど、ちょっとそれはどうかなと思って、距離を置いていたんですね。
(「田中ロミオ インタビュー」『月刊メガストア』221号、7頁)

通過儀礼を取り落すことがないように気を付けていたという「普通であるための技法」への関心と、普通であることを諦めた人々への敵意。このうち後者の側面が強く出たのが『AURA』だと思うのですが、私にとって興味深いのは前者です。
『人退』においても「わたし」が「Y」や「巻き毛」と良好な関係を築いていく過程は、ちょうど「おたく趣味のグループ」が「無防備さ」をさらけ出すことで排他的な関係を作っていくのとはちょうど対照的だと言えないでしょうか。「わたし」は「Y」に共感を覚えてはいないし、「巻き毛」に対しても警戒を解いていない。そんな表面的な付合いなんだけど、「わたし」は「Y」や「巻き毛」を友人だと思っている。友人であることとは、裸の精神をつなげることではなく、学習して身に着ける「技法」なのだと言っているのではないか、と。