田中ロミオ『人類は衰退しました』第5巻

人間は考える芋だと思いました。いつだって芋蔓式だから。
―93頁―

人類は衰退しました 5 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 5 (ガガガ文庫)

今巻には主人公の学生時代を描いた「妖精さんの、ひみつのおちゃかい」、オールドゲーマー向けのパロディを散りばめた「妖精さんたちの、いちにちいちじかん」の2話が収録されています。後者の話もそれなりに興味深いのですが、今回は前者の話に注目してみましょう。ある意味、いままででもっとも「ロミオらしい」話になっています。
ロミオ作品では、ちびっ子はいじめられると相場が決まっていて、学生時代の主人公もその例に漏れずいじめられてしまいます。今回の妖精さんの役目はふたつ。ひとつは主人公との交流のなかで、主人公自身を客観化する「鏡」としての役目。

「それであなた、どうしたいんですか?」
「きえたいです」
「ちょっと・・・・・・」
わたしは狼狽えます。
妖精は言葉を重ねました。
「もうじき、きえるきがします」「ぼくら、きえたいとおもうと、きえる?」「なくなって、いなくなって、さよならします」
(中略)
学舎に来たばかりの頃、くだらない悪戯の標的にされたこともありました。
あの時、わたしは消えたいと願い、本当にそうなれそうな気がしました。
―66頁―

いじめられても気丈に振る舞っていた主人公に「辛い」「友達がほしい」と思わせるためのトリガーとして、妖精さんは現れます。
もうひとつの役目は、ネットワーク。妖精さんそのものがネットワークなのです。

誰かがいれば誰かが来るのです。
お茶会が行われていれば、きっとお客は来るのです。
寄せては返す通信のように。
それらはまったく同じ原理なのです。
移動するものたちが、意思を繋いでくれるという意味で。
だからわたしは知ったのです。
妖精さんさえいてくれたら。
そう、彼らが記憶の狭間にいてくれたら。
どんな相手とだって、わかりあえるのだと。
―171頁―

この話をざっくりとまとめてしまうと、いじめられていた主人公のもとに、ある日妖精さんが現れた。「ひとりはいやだ」「友達がほしい」という主人公の願いを叶えるため、妖精さんは主人公の意識のなかに潜り込む。それから徐々に人間関係は改善され、主人公は親友を得る。めでたしめでたし・・・・・・。
なのですが、この過程で妖精さんがどういう役割を果たしているのか、きわめてわかりづらい。妖精さんが主人公の意識に潜り込み、それから事態が改善していくのですが、具体的に妖精さんが何をしたかは明示的に書かれていないのです。それにも関わらず「いい話だった!」と納得出来てしまうところがロミオ節なのでしょうが、この点について少し考えてみましょう。
まず、物語の冒頭で、クスノキの里に住む妖精さんたちが「町内会旅行」に出かけます。そのあと主人公は居眠りをし、そのときに見た夢という形式で物語が展開していくわけですが、妖精さんたちはどこに旅行へ行ったのか。終盤の会話から察するに、主人公の意識に潜り込んだ妖精さんを媒介に、主人公の記憶をのぞき見していたようです。

「ぼくら、だれかいれば、あいにいけます」
「誰かいれば?」
「ひとりでも、いれば」
―166頁―

わたしだって、先輩がたの秘密を盗み見したんですから、おあいこ(?)です。
―同上―

主人公が学生時代の夢を見たのも、妖精さんが主人公の記憶のなかを「旅行」していたから、ということになるのでしょう。
次に、主人公の友達づくりに妖精さんがどのような役割を果たしたのか。主人公と妖精さんの「最初の」出会いは、次のように記述されています。

ああ、そうでした。
妖精とは、こういう生き物だったはずです。
幼い頃、遊んでいた――
不思議なくらい記憶から薄れているその事実に、わたしは戸惑います。
―60頁―

巻末の解説では、妖精さんのことを忘れてしまうのは、妖精さんが「人の意識に隠れ住むことができる」ためだと述べられています。主人公は何度も妖精さんのことを忘れてしまいますが、それは妖精さんがいなくなったことを意味しているわけではない。また、妖精さんのことを知らないという主人公以外の多くの人々の意識にも、実は妖精さんが隠れ住んでいるのかもしれない。
どんな願いでも叶うという「妖精のお茶会」を見つけるという目的を共有することで、主人公は友人を見つけていきます。そのような伝承の存在自体が、誰もが意識の中で「妖精さん」を共有していることの産物なのでしょう。また、学舎のなかに隠し部屋が存在することで「妖精のお茶会」の現実感はぐっと高まりましたが、主人公たちが隠し部屋の存在に気づいたきっかけは清掃ロボットが壁に体当たりしていたことであり、そのロボットのなかには妖精さんが入っていた。
要するに、「妖精さん」とは人々に共有される伝承(妖精のお茶会)であると同時に、伝承を生み出す「無意識(個々人のなかに入った妖精さん)」のことでもあるわけです。集合的無意識という言葉が示しているように、無意識は個別的であると同時に共有されるものでもある。個と全体の(あいまいな)統一。それは、『最果てのイマ』や『Rewrite』でも示される田中ロミオの社会秩序観を反映したものであると言えるでしょう。
最後に主人公は、人と人とを繋げる「妖精さん」に問いかけます。

「あなた自身は」わたしはかすみ目の向こうにいる妖精さんに叫びます。「あなた自身は、寂しくないの?」
陽気な声だけが返ってきます。文字通り木霊のように。
「せんきゃくばんらいですからー」
そうきっと、わたしがいろいろなものと接するたびに、彼らは――
―172頁―

最果てのイマ』における「敵」が、人々の集合意識から生れた上位自我であり、上位であるがゆえに「孤独な神」であったことを思い出してみましょう。「孤独な神」は他者を求め、自分を生み出した人類と殺し合ってしまった。人間が大好き、と言われる「妖精さん」が『イマ』の「敵」と本質的には同じ存在であることは明らかでしょう。ただ接触の仕方が異なるだけです。