minori『夏空のペルセウス』に関する雑感

年末年始は巨乳村に滞在してきました。

夏空のペルセウス 豪華版

夏空のペルセウス 豪華版

ヒロイン全員が巨乳で、まじめなシーンでもついおっぱいに目が行ってしまう作品、それが『夏ペル』です。さんざん言われていることではありますが、「小品」と形容するのがふさわしいボリュームと読後感ですね。もっとも、年を重ねるごとに重厚長大大艦巨砲主義の傾向を強めていくのが世の常ではありますので、それに逆行するようなminoriのやり方もまあアリかな、と。山と川があって星が見える田舎を舞台にしながら、結局最後まで泳ぎもせず登山もせず、天体観測を少しするだけという潔さは、割と好きです。
非ナンバリングタイトルということで『すぴぱら』後編までの繋ぎ的な作品だと思うのですが(これで『すぴぱら』が出なかったらずっこける)、これまでの作品とはかなり違った印象を受けました。何よりも登場人物の少なさ。主人公以外は全員ヒロインで、『すぴぱら』に出てきたような「主人公の悪友」も、「ヒロインよりも人気が出てしまうサブヒロイン」も一切登場しません。『すぴぱら』が漫才だとすれば、『夏ペル』は舞台演劇、と言ったところでしょうか。要所要所で「演説か」というくらいの長台詞の応酬が行われるので、やはり演劇っぽい印象を受けます(原作(シナリオ原案?)の御影氏には、まさに演劇をモチーフにした小説『ドリームノッカー』があるわけですが)。「真剣10代しゃべり場ですか、ここは」という感がなきにしもあらず。
「efみたいなやつをもう一回作ってくださいよ」と言ったら「それはもうやりましたから」と返されるであろう、と私はほとんど確信しているのですが、たぶんそういうことなのでしょう。恋愛に関する地味なテーマとファンタジー設定とが組み合わさっているという点で、『Wind』とは少し似ているかもしれません。感想も同じで「描きたかったことはよくわかるが、そういう方法でなければ描けないものだろうか?」。
minoriは一貫して「恋愛」を描き続けてきたわけですが、今回の『夏ペル』も同じで、各シナリオを通して解決すべき問題が、そもそも恋愛をしなければ生じないか、あるいは顕在化しなかったであろうもの(対照的なのはkeyでしょうか)。主人公は「触れた相手の痛みを引き受ける」という特殊な力の持ち主で、愛情と同情とが未分化のまま行動したため空回ったり拒絶されたりする。それはそれで大事なことを描いていると思いますし、シナリオごとに異なる結論も、選択肢を極限まで絞って「ほとんどすべて(プレイヤーではなく)主人公が選択する」という印象を与えることで、主人公が自分の選択したことなら仕方ない、という感じで受け入れやすくなっています。ただ、肝心の恋愛が主人公の設定をめぐるあれこれで薄められたという印象を受けますし、これまでの作品で多用されてきたヒロイン視点の描写がほぼ無くなったのも残念。視点変更などを通してそれぞれの人物の意外性を描写する点にminoriの良さがあったと思うのですが、今回はややのっぺりした印象ですね。
物語の内容について端的に述べるなら、恋愛によって生じた関係性の危機を主人公が愚直に乗り越えていく成長物語、ということになるのでしょうか。


「わたし……わたし、からっぽで……森羅にあげられるもの、なにもなくて……」


主人公と同じ力を持つために主人公(森羅)への依存を高め、同時に自分を追い詰めていく遠野恋。主人公との閉じた関係を築き、主人公以外との関係から外れていく菱田あやめ。これとは反対に、主人公以外との関係のなかに恋愛が埋没してしまう皆川翠。いずれも主人公の特殊な力が物語の出発点にありながら、最終的には愚直で現実的な解決策を選択します。ヒロインたちは「痛み」を受け入れることで、自己の輪郭を取り戻す。そのためにはまず、痛みを引き受ける主人公の能力が否定されなければならない。
先ほど「恋愛によって初めて問題が生じる」と書きましたが、唯一シナリオ順が固定されている沢渡透香ルートだけは例外で、主人公に出会う以前から不治の病を抱えており、それを見つめる時間も得ている。だからこそ自分から痛みを取り去ろうとする主人公を、彼女だけは拒絶することが出来るわけです。「痛みは生きている証であること」。透香以外のシナリオで出される結論を、彼女は物語の開始時点ですでに持っています。最終的に主人公が自身の能力を肯定することができたのは、このスタート地点の有利さのため、なのでしょう。ここでは主人公の痛み(能力)が肯定されることで、ヒロインの痛みが否定される。


「救うなんて思い上がりだと思ったこともあった。でも、俺は思い直したよ。/救うってことは、やっぱり優しさなんだ。誰かを思う気持ちの表れなんだよ」


不幸を減らすためにではなく、幸福を増やすために、共に歩む。
いや、まあ、それを描くのにこれだけの仰々しい設定が必要なのか、とは思うわけですが。


追記:設定と各シナリオの関係だけ取り出せば、『こなたよりかなたまで』の主人公とメインヒロインの役割をひっくり返したものに近い、と言えるでしょう。「a story about the "Gift" you have.」と公式サイトにもありますし。
しかし『こなかな』ほど心が動かされないのは、「奇跡を受け取るかどうか」を問いかけた『こなかな』と、「奇跡を与えるかどうか」を問いかけた『夏ペル』の違いに由来しているように思われます。結局は同じことを問いかけているのでしょうが、後者が傲慢な問いに見えるのはいかんともしがたく……