初詣の成立

という論文を、高木博志さんが10年以上前に書いておりまして。私もその内容要約を別のブログに書いたことがあるのですが、お正月なので転載しておきます(手抜きの極み)。

要点:近世以前において正月、特に元日の過ごし方は千差万別であったが、一般的には家の中で歳徳神を迎える傾向が強かったと考えられる。それが、元日に行われる官公庁への拝賀と学校の元始祭を通して宮中行事と結びつき、元日のもつ特別な意味が社会に浸透していく。こうして国家的祭祀としての初詣が成立したのである。さらに初詣はその成立過程において「物見湯山」的な性格を強めていく。その背景には鉄道会社その他による商業的な狙いがあったと考えられる


まずは明治維新よりも前の元日の過ごし方を見ていこう。大正六年一月十五日付の『京都日出新聞』には「維新前の京都の正月」と題した、以下のような記事が書かれている。

「町屋では元日は戸を閉ぢて一日寝込むので、これを寝正月といつた。恵方棚を作り、にらみ鯛を竈の上に懸ける。鯛は夷の持物で赤は陽を表するからである。正月の活動は二日から始る。書初、謡初、廻札、商始、初乗初皆二日からである。(中略)恵方参りも賑つたが、殊に鞍馬の初寅詣は景気があった。寅の日は本尊出現の日とも、毘沙門天の縁日とも云つている」

元日はどこにも出かけず、家の中で歳徳神を迎えること。それと、近世の初詣と言うべき恵方参りが三が日とは関係なく、十二支に基づいて毎年違う日に行われていたこと。この2点は注目に値するだろう。
それに対して、江戸では屋内で歳徳神を迎える「年徳棚」の存在と共に、元日に「恵方参詣」が行われていたことが天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』に記されている。農村部でも三が日は家の中で休息する地方、元日から年男が神社に参詣する地方など多様な習慣が存在していたことが報告されており、近世の正月の過ごし方は千差万別であったと言える。ただ、一般的には柳田国男が以下のように書いている通り、家の中で歳徳神を迎える場合が多かったようだ。

元日だけは戸をしめ掃除もせず、家にこもって親子夫婦ばかり、和やかに静かに一日を送るのが、古風な正月の幸福であったと思われるのに、人が群がって住むようになると、まず早天から飛び出してやたらに訪問をする
――柳田国男「これからの正月」1941――

では、初詣という習慣はどのような過程を経て社会に定着したのか。1929年に刊行された矢部善三『年中事物考』には以下のように書かれている。

「既にして、元日早旦に、先づ上は宮中に於せられて御神事あり、その大御手振りのまにまに、全国の神社に於いて神事あり、国民の習礼として元旦の神拝がなければならぬ処である。(中略)此の風習は、やはり宮中に於る四方拝に起源を発して居るものらしく」

矢部が言うには、宮中において行われていた四方拝という儀式を国民が真似て作られるのが初詣である、ということだ。この単純な図式をそのまま受け入れることは出来ないが、初詣の成立において官公庁の果たした役割は注目される。


『京都日出新聞』の記事を参照しながら、その成立過程を辿っていこう。
まずは明治十九年の正月だが、大晦日に行われていた祗園社への参詣についての記事で「去年は十二時頃雑踏してお旅町より巡査が人力車を止むる程なりしも、一時過ぎには人足も稀となりたり」とあり、元日の参詣が行われていなかったことを表している。明治三十三年の段階でも「元日は魔が襲ふとて門戸鎖す家多かりしも、二日は皆晴れ晴れしく家門開け放ちたれば人出も従つて多く」とあり、元日は家に籠もる近世の習慣が続いていることをうかがわせる。
しかしその一方、官公庁や諸学校では早くから元日の行事が行われていた。

「また京都府庁は例により諸官員一同参賀に昇庁せしにつき庁前は馬車人力車にてさしも広き門前も暫時は往来を止むるくらいなりし、その他裁判所府立公立の諸学校に於ても例によりて門松注連飾をなし、いづれも新年の飾りをなしたり」

こうした元日の習慣は、学校を通して地域社会に広がっていく。明治二十四年に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」において、正月は「元始祭」として社会全体の年中行事に組み込まれるのである。
http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/archive/chronology/senzen/shogaku910617.htm
なお、元始祭は明治三年に宮中で創始された新しい祭であることを付け加えておく。


以上のような過程を経て元日に特別な意味が付与されるようになったわけだが、それに伴って明治二十七年以降は恵方を知らせる記述が毎年元旦の新聞に登場するようになる。このことから、元日の恵方参りが一般化したことを知ることが出来る。
その恵方参りのあり方も変化していく。明治三十二年の記事では

「本年の恵方は寅卯の方なり、されば京都の真中六角堂頂法寺よりいへば、東丸太町の熊野社、聖護院お辰稲荷、壇王の東にある法皇稲荷、平安神宮吉田神社なるべし。(中略)それとも屠蘇に酔ふた人は神棚を仮に家の寅卯の方に移して拝んで置くも差し支えなからん」

とあるように、正月参り=恵方参りという意識がうかがわれる。ところが明治四十年になると

「大人は市議事堂へ、子供は学校に君が代を寿き奉りて帰れば、父子夫婦合携へての神詣で物見湯山(中略)神社にては伏見の稲荷神社、八坂神社、恵方は今宮神社、近くは白雲神社への参詣者多く」

と、「恵方参り」とは別に「神詣」という概念が出現する。しかも「神詣」の対象は官幣大社である伏見稲荷と八坂神社であった。
大正期に入ると「初詣」という言葉が定着するが、それに代わって「恵方参り」という概念が後退していく。大正五年の記事では以下のように書かれている。

京阪電車の広告では八幡が恵方とあるし、京電の広告では稲荷が恵方とある、大分に方角が違うが、どちらでもエイ方に参詣したら御利益があるに相違あるまい」