アガンベンをどう読むか―生権力・証言・メシア主義―

某所で報告した際のレジュメです。不十分な内容ではありますが、哲学・思想の専門家ではない自分にとって、現時点ではこの辺が限界(といいつつ、補足したい点は既にいくつかあったりする)。
1.アガンベンを読むことの難しさ
A.生権力・無為……フーコー(『知への意志』)やナンシー(『無為の共同体』)とどう違う?
B.領域横断性、主著の不在……多様な要素が(おそらくはアガンベン自身にとっても)明確な関連が意識されないまま混在していること。
C.「メシア的」というモチーフ……「世俗化されたアガンベン」と「メシア主義者としてのアガンベン」という対照的な像。
課題:彼の仕事の全体像を視野に入れながら、(おそらくはその全体像を知るのに最適な作品だと思われる)『アウシュヴィッツの残りのもの』を読み解いていくこと。アガンベンと、彼に影響を与えた思想家(ベンヤミンフーコー、ナンシー、デリダら)との違いを明確にすること。アガンベン独自の文脈を明らかにすること。


2.『アウシュヴィッツの残りのもの』を読む
A.アウシュヴィッツとは何か?
キェルケゴールの言葉によれば、「例外は一般的なものとそれ自身について説明する。一般的なものを正しく研究したいなら、本物の例外をしっかり調べなければならない」。」(1)
カール・シュミット『政治神学』にも同じ言葉が引用されている。
「例外がすべてを証明する。例外は通例を裏づけるばかりか、通例はそもそも例外によってのみ生きる。」 (2)
「例外状態」と「生権力」の関連性はアガンベンにおいて強く意識されている。
「例外空間としての収容所の逆説的な立場について考察しなければならない。それは、通常の法的秩序の外に置かれた領土の一片であるが、たんに外部の空間のなのでもない。収容所に排除されているものは、例外という語の語源的な意味(つまりex-capere)に従えば、外に捉えられている。つまり、自らの排除そのものを通じて包含されている。」(3)
→外へと排除しつつ、自分の内に捕捉する状態としての「例外」。共同体秩序から排除しつつ、同時に統治権力の関心の対象でもある「ホモ・サケル」と対応している。
しかし、近代においてはホモ・サケルになるものが追放される「外部」は存在しない。
→国家(共同体)の「内部」に「外部」が生じる(あるいは内部と外部の区別が消滅する)。
アウシュヴィッツとは、まさしく、例外状態が正規のものとぴたりと一致していて、極限状況が日常的なもののパラダイムそのものとなっている場所のことである。……通常はそうであるように、例外状況と正規の状況が空間と時間において分かたれたままであるかぎりは、両者は、ひそかに互いの基礎となっていながら、不透明なままである。しかし、今日ますます頻繁に見られるようになっているように、両者は、共犯関係を白日のもとにさらすやいなや、いわば内側から互いに照らしあう。」(4)
このようにアウシュヴィッツは生権力が近代にいたって日常空間を覆いつくしたことの証であると同時に、(ミネルヴァの梟のように)頂点に至った生権力が危機を迎えていることの証でもある、という両義的なものであることに注目する必要がある。
「収容所が誕生するのは、生(生まれnascitaないし国民nazione)の記入という自動的な規則に媒介された、これこれの局在化(領土)としかじかの秩序(国家)との機能的関連に基礎を置いていた近代の国民国家の政治的体系が持続的な危機に入り、国民の生物学的な生への配慮を、国家が自分の任務の一つとして直接に引き受ける時である。……収容所は、生を秩序に記入するにあたっての新たな隠れた調整機である――というかむしろそれは、致死機械へと変容しなければ体系が機能しえない、ということのしるしである。」 (5)
→生まれること(むき出しの生)が自動的に市民・国民になることを意味した近代の生権力が変質しつつある(その自動的な規則が機能していたころは、「国民の権利」を「人権(むき出しの生に与えられる権利)」と呼ぶことができた)。


B.「人間」とは何か?
「話す存在である人間は、どうしてもコミュニケーションから逃れることができない」という「珍奇な理論」(6) 。→人間の本質を考えるうえで「話す」ことは重要ではない。むしろ、「話さないことができる」ことが重要だ。
「じっさいにも、動物たちは言語活動が欠如しているわけではない。逆に、動物たちはつねに絶対的に言語である。動物たちにおいては、「純真無垢な大地の神聖な声」……は中断も分裂も知らない。……これにたいして、人間は、インファンティア〔言語活動をもたない状態〕をもっているために、つねにすでに語る存在ではないために、この単一の言語を〔ラングとパロールに〕分割する。」(7)
「ラングとパロールのあいだの分裂もなければ、言語の歴史化になることもないだろう。しかし、そのような人間は、まさにそのことのために、直接その本章に結びついているだろう。つねにすでに自然であって、このことのうちには、いかなる方面からも、歴史のようなものが生み出されうる不連続や差異を見出すことはないだろう。……歴史は語る存在としての人類の直線的時間にそった不断の進歩ではなく、その本質において、間隙であり、不連続であり、エポケーなのだ。」 (8)
インファンティア≠幼児期。人間が眼を閉じているときに見える黒色(見ないことができる、という感覚)に相当するものが、言語にも存在するとアガンベンは考える。
→「欠如のもちよう」(=潜勢力「しないことができる」)としてのインファンティア。
では、人間が言葉を話すことは、潜勢力を失うことなのか?
「存在しないことができるという潜勢力は単に取り消されるのであってはならない。存在しないことができるという潜勢力は、それ自体へと向きなおり、存在しないのではないことができるという形を引き受けるのでなければならないだろう。」 (9)
→偶然性(存在することもできるし、存在しないこともできる)としての潜勢力は、それが現実化(現勢力化)したあとも残り続ける。ベンヤミンのいう「法措定暴力」と「法維持暴力」の関係を想起させる(法を維持するための暴力は、法が生み出される暴力の派生態であるという議論)。
「この形象はまた、美学においては創造行為や作品のありかたを、政治学においては構成された権力において構成する権力が保存されるという問題を、新たなしかたで考察することを私たちに強いてくる。」(10)
→言葉を話せるようになること(現勢力化=主体化)と、言葉を話さないでいること(潜勢力=インファンティア=脱主体化)は共存することができる。


C.言語と証言
言葉を話せるようになる、とはどういうことなのか?
言葉を話す=言葉と、言葉の外部(モノ)を対応させることはなぜ可能なのか。アガンベンバンヴェニストの言語論に依拠しながら、言葉にはその内部に、言葉ではないもの(言葉の外部)が含まれている、と考える。
「「わたし」、「あなた」、「いま」、「ここ」といったシフター〔陳述指示語〕の意味のようなものを定義することはたしかに可能であるが……その意味は言語活動のほかの記号になら通用する辞書的な意味とはまったく別のものである。わたしは観念でも実体でもない。言述行為において言表がかかわるのは、そこで語られることがらではなく、それが語られているという純粋な事実である。」 (11)
→言語のなかに非言語(しいて言えば意味から切り離された「言語の存在」)が含まれている。
「じっさい、〈わたしは話す〉という言表を本当にまじめに受け取るということは、もはや言語活動をそれの所有主にして責任者である主体による意味の伝達や真理の伝達と考えないことを意味する。」 (12)


「わたし」という出来事―言語外の経験と一体化することによって、言語を話すという主体化と、
出来事そのものになるという脱主体化が同時に起こるというバンヴェニスト言語論と、言葉を失った非人間としての「回教徒」の代理として生存者が「証言」をすることのトポロジカルな関係にアガンベンは注目する。
「こうして、アウシュヴィッツについての見解を二分している対立する二つのテーゼがどんなに不十分であるかがわかる。ヒューマニズム的な論法による見解では、「あらゆる人間は人間的である」と主張される。反ヒューマニズム的な論法による見解では、「一部の人間だけが人間的である」と唱えられる。証言が語っているのは、これらとはまったく異なることである。それは以下のテーゼに公式化することができるだろう。「人間は、人間的ではないかぎりで、人間である」。あるいは、もっと正確に言えば、「人間は、非−人間について証言するかぎりで、人間である」。」 (13)
言語外の出来事(「わたし」が語っているという出来事であったり、語ることのできない回教徒であったり)に同一化しつつ語るという、主体化と脱主体化が同時に生起する主体のモデルを、アガンベンアウシュヴィッツに見出す。
では、このような主体論/言語論が、どのような形で再び政治学/生権力論へと送り返されるのか?


木村敏による「世俗的な」アガンベン解釈
「人間は、人間であることによって、ということはつまり、自己を自己自身に対峙させうる生きものであることによって、自己と自己自身のあいだを――ゾーエーとビオスのあいだ、生命機能と内的生活史のあいだを、と言ってもよい――「自分」という一人称的な主体/主観の「場所」として、「スタンツァ」として生きている。……この主体/主観から出た声は、他人の主体/主観に、間違いなく届く。もし届かなければ、アウシュヴィッツは人類の歴史に残らない。それが間違いなく届くのは、この「あいだ」の場所/非−場所が、自己と自己自身の隔たりを架橋しているだけでなく、自己と他人との隔たりをも架橋しているからである。……この難問に接近するひとつの手がかりとなりうるのは、アガンベンが精緻な手法で分析している「恥ずかしさ」の現象だろう。恥ずかしさにおいて、自己は、自己が引き受けることのできない自己自身への受動的な現前を強いられる。そして、いうまでもないことだが、恥ずかしさは「他者」なるものの存在を前提にしなければ成立しない。恥ずかしさが発生するその場所こそ、自己と自己自身との内密な隙であると同時に自己と他者との内密な裂隙でもあるような、場所―非場所でなくて何であろう。」 (14)
→有力な解釈であることは確かだろう。だが、つねに・すでに成立している間主体性を「自覚」することが重要だという、通俗的なナンシー解釈と同様の問題を抱えているのではないか。
ともあれ、アガンベンにおける別の局面(メシア主義)に注目してみることが必要だろう。


D.メシア的なものをめぐって
「残りのもの(resto)というのは、神学的−メシア思想的な概念である」(15) と書かれているように、アガンベンの仕事のなかでメシア主義は大きなウェイトを占めている。
「残りのもの」とは何なのか?
「残りの者の概念において、証言のアポリアはメシア到来のアポリアと一致する。イスラエルの残りの者は、民全体ではなく、その一部でもなく、全体にとっても部分にとっても、自分自身と一致することの不可能性、また相互のあいだでも一致することの不可能性をまさに意味しているように、そしてメシア到来の時は、歴史上の時でもなければ、永遠でもなく、両者を分割する隔たりであるように、アウシュヴィッツの残りの者――証人たち――は、死者でもなければ、生き残った者でもなく、沈んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもなく、かれらのあいだにあって残っているものである。」 (16)


アガンベンは、「同一者と同等者をつくりだす普遍的思考」の創始者としてのパウロという、バデュウの解釈をきっぱりと退ける。「パウロにとって問題なのは、差異を〈許容し〉たり、差異を横切ってその彼方に同一性や普遍性を見出したりしようとすることではない」。要するに、「差異を見渡すことのできるような超越的原理」として、普遍なるものが存在するわけではないのだ。たとえば、A/non Aという分割は、必ずやnon non Aという残余を生みだす。この分割線……をいかに細くしていったとしても、分割の分割によって生まれる残余はけっして解消されることはない。(パウロにとって、アガンベンにとって)問題は、いかに普遍的人間たりうるかということではなくて、このように残余があるということ、ユダヤ人やギリシア人が自分自身と一致できないということ、(今日もなお)残余が生み出されているということである。そして、アガンベンの解釈によれば、この残余こそが、メシア的救済の主題=主体なのである。」 (17)


「そして、最後に、残りの者は、以前には全体の分割と喪失を印していたものにたいして、その全体の救済を可能にするための救済の装置となってあらわれる。」(18)
アウシュヴィッツの残りのもの――「回教徒」とも生き残りとも一致しない、「非−人間について証言するかぎりで、人間である」ような主体こそがメシア的救済の主体であるという。何故か?
「生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非人間と人間が――あるいは一般的に歴史のプロセスの両端が――、あるいひとつの到達された完成された人間性のうちで溶接され、実現された同一性のうちで合成されるような、そのようなテロス〔目的〕をもったものと見なしてはならないのである。といっても、目的を欠いているからといって、それらのプロセスは、果てしのない幻滅や漂流という無分別さ、あるいはむなしさを宣告されるわけではない。それらのプロセスは目的(fine)をもたないが、残りのもの(resto)をもっている……メシアの王国は未来(至福千年)でも過去(黄金時代)でもない。それは残っている時間(tempo restante)なのである。」 (19)
→一方ではヘーゲル的な弁証法が、一方ではデリダ的な脱構築が穏やかに批判されている(「証言は、結合の非−場所において生起する。声の非−場所には、エクリチュールではなくて、証言があるのである」 (20))
「メシア的テーマの停止」を告げる脱構築/改良主義デリダに対し、アガンベンは残りのもの/メシア的革命を対置させている、と考えるべきか。


改良主義者としてのデリダ
(『法の哲学』を念頭において)「デリダが指摘するように、死の贈与と生の贈与をめぐってルールを創設するならば、脱構築の実践を開始することができる。そこにこそ歴史的進歩の政治的チャンスがあるかもしれない。実際、デリダは、「脱構築の名において」、決定不可能なゾーンに新たなルールを構築することを推奨する。中絶、安楽死、臓器移植、医学実験、動物的生命に関して、法律の制定を勧めるのである。……しかし、奇妙ではないか。世界に脱構築の実践しかないからこそ、死が出口に見えたのではないか。その死をも脱構築の実践の対象にしたところで、死んだ者には何の関係もない。むしろ、自らの死までもが経済に巻き込まれ、脱構築的な改革に引き込まれることに、世界の底知れない善意ないし悪意を感ずるのではないか。」 (21)
しかし、「デリダには別の局面があって、こちらの方が重要である」 (22)。
「生きているか死んでいるか定かでない状態、それゆえに、死の贈与と生の贈与と経済の絡み合いから絶えず脱落している状態は、最悪の状態であるにしても、決まりきった世界、脱構築だけが進行する世界において、底知れぬ善意や悪意の歯の立たないような最善のものを告げる予兆であるかもしれない。……「生きるのに疲れた」「生きているのがシンドイ」「生きるのをやめたい」「死ぬ自由ってあるよね」。ならば、死んだことにすればよい。死んだも同然の生、生かつ死、非死かつ非生を試してみればよい。おそらく、デリダが、ブランジョのテクストに仮託して言わんとしていたことも、そんなことである。」(23) 
ここに、アガンベンと(『滞留』の)デリダとの、意外な近さを見ることができるのかもしれない。一方、アガンベンはこの受動性の能動的引き受け(あるいは非人間を人間が引き受けること)を、「回教徒」における受動性の受動的引き受けと対置させつつ、能動的に受動的な(別の言い方をすれば潜勢力が保持された現勢力としての)主体を基礎とした政治体制を構想し、それによって生権力(=強制収容所)を超えていこうとする。


「ダンテ〔・アリギエーリ〕」は、人間の無為〔存在しないことができる、という潜勢力〕に対応する政治を考えている。つまりその政治は、単に絶対的な人間の理性の働きを出発点として規定されるのではなく、自らが存在しないという可能性、自体的無為の可能性を露呈し、そのような可能性をそれ自体の内に含んでいるような働きを出発点として規定されている。ダンテはこの無為から、ある政治の主体としての多数者の必然性を演繹している。その政治とは、あらゆる個々の共同体を超過し、その超過に対応する統整的根拠としての君主制や帝国といった共同体をも超過する政治である。自体的な本質的無為の自覚から、思考はこれ以外にどのような帰結を抽き出すことができるだろうか?一般的に言って今日、生政治的任務の引き受けへと単にあらためて堕してしまうことのないゆな、人間の働きにふさわしい政治はありうるのだろうか?これらの問いは今のところ宙吊りにしておかなければならない。」 (24)


3.
(以下を欠く)


脚注
1 ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』1998年(上村忠男・廣石正和訳、月曜社、2001年、61頁)
カール・シュミット『政治神学』1922年(田中浩・原田武雄訳、未来社、1971年、23頁)
ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』1996年(高桑和巳訳、以文社、2000年、45頁)
アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』63頁
アガンベン『人権の彼方に』48頁
アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』83頁
ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』1978年(上村忠男訳、岩波書店、2006年、91頁))
アガンベン『幼児期と歴史』93頁
ジョルジョ・アガンベン「思考の潜勢力」1987年(『思考の潜勢力』所収、高桑和巳訳、月曜社、2009年、348頁)
10 アガンベン「思考の潜勢力」
11 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』186頁
12 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』190頁
13 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』164頁
14 木村敏「「あいだ」と恥ずかしさ、そして証言」『批評空間』第3期第4号、2002年、129頁
15 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』219頁
16 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』221頁
17 岡田温司アガンベンへのもうひとつの扉」(ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』所収、岡田温司他訳、人文書院、2002年)
18 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』221頁
19 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』214−215頁
20 アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』176頁
21 小泉義之「自爆する子の前で哲学は可能か―あるいはデリダの哲学は可能か?」『RATIO』第1号、2006年、21頁
22 小泉「自爆する子の前で哲学は可能か」21頁
23 小泉「自爆する子の前で哲学は可能か」22−23頁
24 ジョルジョ・アガンベン「人間の働き」2005年(『思考の潜勢力』所収、438−439頁)