『リトルバスターズ!』試論(1)

自分のなかで考えが完全にまとまってから書こうと思っていたのですが、それを待っているといつまで経っても書けそうにないので、見切り発車ではじめてしまうことにします。以下本文。

リトルバスターズ! 初回限定版

リトルバスターズ! 初回限定版

不気味なのは、自殺が献身と結び付いていることである。自己に死を与えることが、他者のために死ぬことに、さらには、他者に生を与えることに結び付いていることである。それだけではない。死の贈与と生の贈与は、経済(エコノミー)と結び付いている。ここで物事を考えなければ、ここで哲学するのでなければ、死んでも死に切れないと思っておくことにしよう。
――小泉義之「自爆する子の前で哲学は可能か―あるいはデリダの哲学は可能か?」『RATIO』第1号、2006年――

key作品を、東浩紀とは違ったやり方で読んでみたい、と思う。「『クォンタム・ファミリーズ』はkeyの諸作品がなければ存在しなかった」と東自身が言明しているように、両者の密接な繋がりについてはいまさら強調する必要はないだろう。それだけに、麻枝准の読み替えという作業が持つ意味は大きい。
実のところ、最近の『Angel Beats!』に対する(完全に正しいのだけど)くだらない批判に苛立っていたというのもある。彼らの批評的営為のなかに、東浩紀の麻枝論を相対化するようなものがひとつでもあっただろうか?良くも悪くも東浩紀に影響されすぎている。それはつまり、構造でしかものを見れていない、ということなのだけど。
では、どこを取っ掛かりにして議論を進めていけばいいのだろう。そう考えたとき、東や福嶋亮太らがkey作品の中では例外的に『リトルバスターズ!』を低く評価していることに気がついた。曰く、「リトバスはけっこうどうでもいい」。曰く「麻枝准年来の「反転」の小細工だけで成り立っている」。なぜだろう?例えば福嶋の『リトバス』批判は筋が通ったものだが、では『AIR』や『CLANNAD』とどこが違うのか、という問いに答えているとは思えない。
彼らの批判は恣意的なものなのか。そうではないだろう。逆に、なぜ彼らが『CLANNAD』を評価するのかについて考えてみよう。東は以下のような理由で『CLANNAD』のエピローグを肯定する。

ぼくの考えでは、もともとマルチエンディング・ノベルゲームでは(そして本当は、ぼくたちが生きているこのリアルな世界においても)、「トゥルー」エンドなどというものはありえない。渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを摑むことができる」という通常の物語とは異質なものです。
したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐は CLANNADでは、救われていると同時に救われていない。そんな両義性こそが、美少女ゲームの魅力の核心ではないでしょうか。

汐は救われているのか - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版

ここでは東の「倫理的判断」とでも呼ぶべきものが前面に押し出されている、という点で注目に値するだろう。では、汐は救われていると同時に救われていない、というよりは、汐が救われた世界は汐が救われなかった世界の犠牲の上に成り立っていることを想起するべきだという東の主張を、我々はどのように理解するべきなのか。
まず考えられるのは、東の思想的背景であるデリダの哲学―脱構築―との類縁性である。デリダは言う。「脱構築の名において」決定不可能なゾーンにルールを制定し、そのことによってルールの脱構築を開始するべきだ、と。つまり、ルールを「書き換える」ために、まずルールのないところにルールを作らなければならない。しかし、そのルールもテクストである以上、唯一の意味、正しさを私たちに提供してくれるわけではない。彼を生かすべきか殺すべきか、そのような極限状況に対してルールを生み出すことは可能だが、ルールを知った私がどうするかがルールによって決定されるわけではないのである。
このようなルールをめぐるアポリアに直面したとき、脱構築は開始される。「ルールは守らなければならない」「ルールは正義の表現である」といった前提が問い直され、それによって我々がルールを制定する権力の中に入っていくことが可能になるかもしれない。だから、脱構築について端的に表現すれば、くり返しどうしようもない状況に直面しながら、まさにそのことによってルールを変えていくという改良主義、漸進主義なのだ。
安楽死尊厳死に対してルールを制定することができる。しかし、ルールが脱構築可能なものである以上、決定は恣意的なものでしかなく、人は確たる理由もなく殺したり殺されたりするだろう。脱構築は、このような最悪の状況に直面することを、それよりも少しマシな状態を生み出す力へと変えることにその意義がある。が、既に死んでしまった人間には何の関係もない。
麻枝准についても同じことが言えるのではないか。「最悪の状態」にルールを生み出し、それによってルールの書き換えを可能にする。汐の死は完全に無意味なものだが、そこに壮大な体系を導入することで、その死を有意味なものへと転化させるのだ。しかし、それは何かを救済するようなものではなく、むしろ生と死のエコノミーを作り出すだろう。麻枝の作り出す体系は、現に存在している何者をも救済しない。ただ、救済されないというそのことによって、現に存在しない何者かを救済するのだ。ポストモダニズムの倫理というものが存在するとすれば、くり返し最悪な状態に直面しながら、その犠牲によって改良を進めていくことに対し、犠牲になったものを記憶し同情と共感をそそぐことにあると言えるだろう。
このような観点から見ると、従来のkey作品に対して『リトルバスターズ!』がいかに特異な位置にあるかが理解されるのではないか。

「おまえたちは幸せになれる。何が不服だ」
「みんながいない」
――『リトルバスターズ!』Refrain編――

東の、いくらかロマンチックな『CLANNAD』評が、脱構築的漸進主義が必然的に生み出す「生と死のエコノミー」に対する肯定であるとすれば、『リトルバスターズ!』において提起されたのは、それとは別種の倫理主義だ。生と死、明と暗、自己と他者。そのような二項対立から力を得る脱構築に対し、むしろ生と死の「間」に留まり、そこから全的な救済の可能性を探ろうとするベンヤミンアガンベン的なメシア主義との類縁性をこそ、『リトルバスターズ!』からは読み取れるのではないだろうか。(続く)