『現代思想』24(5)総特集「ろう文化」

現代思想1996年4月臨時増刊号 総特集=ろう文化

現代思想1996年4月臨時増刊号 総特集=ろう文化

1996年の特集ということで、いまさらの話ではあるのですが、巻頭の「ろう文化宣言」以下刺激的な内容だったので簡単に紹介します。
木村晴美、市田泰弘「ろう文化宣言」

「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」――これが、私たちの「ろう者」の定義である。(8頁)

手話=不完全な日本語とみなし、それによって手話と口語の併用を目標とする従来のろう学校教育に対し、手話を含めた「ろう文化Deaf Culture」の独立性という立場から反対を加える、という反ノーマライゼーションが彼らの基本的な考え。その意義をざっくりまとめると、以下の3点が挙げられるでしょう。
(1)日本の内なるサバルタン。手話を不完全な言語とみなすことで、健常者がそれを「自分なりに解釈する」ことが当然視され、ろう者自身の考えが抑圧される。
(2)「文化」の定義。彼らがその存在を主張する「日本手話」「ろう文化」は、家庭ではなく主にろう学校において作られる「非血統的文化」である。言語と民族を同一視することへの暗黙の批判。
(3)差別と同化。自らのアイデンティティを確立するために「ろう文化」の存在を彼らは主張するが、その際「中途失聴者と違って、先天性のろう者にとって「ろう」は突然ふってわいた災難ではない」と、中途失聴者、難聴者との差異化が行われる。


ましこ・ひでのり「「聾文化宣言」の知識社会学的意義
(1)の問題に関して。「ろう文化」の発信媒体であるミニコミ誌が、当初は手話を撮影したビデオマガジンの形式をとる予定だったのが、資金と時間の問題から文字雑誌になった。すると、当初は同じろう者を対象とした内向きの雑誌にする予定だったのが、結果的には外向きの広報誌としての役割を果たすことになった。


木村晴美「ろうの民族誌
(2)の問題に関して。「ろう文化宣言」の筆者による自伝。「ろう学校」がいかに「ろう文化」において重要な役割を果たしているかがわかる。


田崎英明「ポスト・エディプス的言語共同体」
(2)の問題に関して。自分たちの使う言葉は一般に「母語」と呼ばれるが、なぜ母の言葉なのか。それは近代化の過程で社会から切り離された核家族が言語の再生産の担い手と見なされ、そこで母親は「正しい言葉」を伝えるメディアの役割を果たしたからだ、と田崎氏。ヨーロッパにおいて、母親が自ら育児をするべきであるという議論が広まった時期と、幼児教育用の「正しい言葉」についての本が出版されるようになる時期とは一致している。
このような状況において、「生殖による再生産の単位と、言語的な再生産の単位との混同」が起こる(271頁)。田崎氏はドイツ第三帝国を例に引いているが、私としては倉田百三の言語論を思い出す。
鶴見俊輔「日本語と日本文化」(『岩波講座日本語1』)を引いてみよう。大正期において(国家主義に回収されない)個の自立を主張していた倉田百三は、『祖国への愛と認識』(1938年)で「人類の一人などという考え方は根のない考え方だという主張」をするに至る。その根拠とは「日本人は誰しも日本語にうまれついているのであり、他の言語は自由にあやつれないという事実」であった。「自分のうまれついた社会の一つの言語しかたくみに使えないから、その言語によって各個人はそれぞれ固有の民族文化に不可避的にむすびつけられている」。

それぞれの民族語を愛しそれを使うことに没頭していると、自然にその行為の中から、倉田のような日本語観に近い考え方はあらわれてくる。・・・・・・日本人には日本語以外はうまく使えないという事実から、だから日本政府の言うことは日本人として批判できないはずだというところまでおしこんできた倉田百三の論法は、日本人の日本語にたいする当然の愛着をこのように使う可能性がかつてあったという実例として忘れないほうがいい。(66頁)

以上の点を踏まえて、「ろう文化」はそれが「ろう学校」で習得される点において、「母と言語の分離」の可能性を示しているのではないか。


大澤真幸「語ることの(不)可能性」
(1)(3)の問題について。自分についての語りは、それを批難したり賞賛したりする他者の存在を必要としている。その他者は、経験的なものではなく超越論的な他者である(第3者の審級)。→第三者への語りかけと、その反射としての自己認識。
しかし、マルクスが『ブリュメール十八日』で描いたように、その他者は自分自身でもありえる(他者性を欠いた他者)。「ろう者においてもまた、自己自身を超越論的な第三者として外部を措定するという逆転が生じており、これが彼らの語ることの可能性を支持しているのではないか」(203頁)と大澤氏。つまり、「文化集団」として措定された外部は現在のろう者自身の投影であり、それをさらに自己へと投影することで「私は私である」と語っているのだ、と。

「ろう」という身体上の症候は、彼らの共同性を他から分かつ指標である限りにおいては、ちょうど分割地農民にとっての「ナポレオン」のように、その意味内容は空虚であっても自己と超越論的な第三者との等置を完結させる決定的なシニフィアンであり、それゆえに決して否定できない圧倒的な輝きを帯びることになるのだ。(304頁)


語り残したことも多いように思われますが、とりあえずこんなところで。