劇中劇について

たいして忙しいわけでもなかったのですが、なぜかブログを放置してました。『リトバス』論の続きが全然思いつかないからでしょう、たぶん。
先週はアニメ版『まほらば』を観返していました。これ、私が京都に住み始めたころに放送していた作品なんですけど、当時はテレビ東京が綺麗に写らない場所に住んでいたので、ノイズ混じりの映像を、それでも面白く観ていた記憶があります。今観ると、懐かしさが加わって余計に面白い……。
ところで、私が好きなアニメには大抵「劇中劇」が含まれている、ということに『まほらば』を観ていて気づきました。『ef』とか『君が望む永遠』とか。『まほらば』や『君望』の絵本、『ef』の小説、どちらもたいした話ではないのですが、なぜか感動してしまう。これは登場人物が感動しているからそれを見ている自分も感動してしまうという「他人の感動に感動」現象なのでしょうけど、それだけでは無いようにも思われます。
ボルヘス『伝奇集』という本を最近読んだのですが、これも劇中劇の一種であると言えるでしょう。架空の書籍に対する論評、という形式で物語を作っていく。しかし読み進めていくうちに、その本が実在するものであるかのように思えてきて、ということはその本を論評しているのも実在するボルヘス自身であるように思えてきて……と、虚構に虚構を重ねることで、逆に現実感が増してくるわけです。
『伝奇集』の中では「バビロニアのくじ」という話が面白かったです。あらゆる出来事がくじ引きで決められるバビロニア。「現実にはくじ引きの回数は無限である。いかなる決定も最終的ではなく、すべてがべつの決定へと分岐していく。無知な連中は、無限のくじ引きには無限の時間が必要だと予測する。実際には……時間が無限に細分できればそれでたりるのだ」(89頁)。無限にくじを引くことができるということは、過去の選択の回数は有限ではなく、無限であることを意味します。それはまた、過去の選択が完結したものではなく、未だ選択されている最中であること、そして現在もまた不定であることを意味するだろう。と、ここまで考えることができるでしょう。だから「バビロニアそのものが偶然の無限の戯れにほかならない」(91頁)。そして、架空の本を、まるでそれが実在するかのように語る『伝奇集』もまた、「偶然の無限の戯れ」であると言えるのではないでしょうか。
この「無限のくじ引き」の話は、時間論としても面白いですね。過去の偶然性、未完結性。前回のアガンベン論で取り上げた「メシア的時間」の話とも通底するものがあるように思われます(というか、そのままかもしれません)。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)