砂義出雲『寄生彼女サナ』

自己と異なる他者に異なるものを発見し、異なるがゆえにそれを讃える人類学者は、自己の集団から遠く離れ、他者の集団にも決して同化することができないような存在である。そして彼の観点や方法は、あくまで彼の出自を決定している西欧の体制と歴史に属するのだ。
『悲しき熱帯』という書物が感動的なのは、このような引き裂かれたままに、どんな図式も解決も与えずに示しているからだ。この人類学者は差異について考えるばかりか、差異をとらえる方法やそのことの意味まで問うている。残念ながら文化人類学を新しい学や知として読む人々にはそれはどうでもいいことだった。
(宇野邦一『反歴史論』せりか書房、2003年、46頁)

田中ロミオの作品からは、文化人類学の香りがする。彼が都市や社会の形態を描く際にはその法則性や合理性が強調されるが、それは誰かの意識によって設計されたためではなく、人間にとっての自然(そこには無意識も含まれる)がそもそも合理的であるがゆえに、意識によってそれを取り出すことも可能となるからだ、と考えられているように思われる。それは構造主義の基本的な考え方と類似する。
より重要な類似点は、「自らと異なった他者」へと向けられる、その視線の在り方だろう。西洋社会へのペシミズムから発した文化人類学は、西洋社会を相対化する「他者」を求めようとする。しかし、その文化人類学もまた西洋社会の伝統に根差した学知である以上、「他者」を発見しその存在を言祝ぐこと自体、きわめて西洋本位主義的なところがある。ロミオ作品における他者との関係もそれと同じだ。私の心を成長させるには他者が必要で、その他者が表れて万々歳……という単純な話では、基本的にない。普遍性と個別性のあいだで揺れながら、その隙間や外部を模索する。というか、私と他者の関係性が「完成」するのを延々と遅らせようとする。この遅延のための努力こそが重要なのであり、「私」や「主体」といった概念の変更(人間とは他者を必要とする存在であり云々)として「ロミオ的なもの」を取り込もうとすれば、それは途端に魅力を失ってしまうのである。
何の話をしているかといえば、ロミオ信者の書いたラノベの話。

寄生彼女サナ (ガガガ文庫)

寄生彼女サナ (ガガガ文庫)

田中ロミオ作品が大好きだということはブログにも書いてあるし、ギャグのセンスだとか、弧絶してしかもそれを意に介さない女性というロミオ的類型人物だとか、「他者への寄生」というモチーフだとか、いかにもロミオっぽい。だからこそ余計に、ロミオの外周をぐるぐる回っているだけではないか、と思ってしまう。実際、作中の某寡黙系ヒロインとのエピソードなんて、『イマ』の沙也可(幼少期)のエピソードを想起させる。このとき生じた共依存を「呪い」と語らせているのは、文句なしに正しい。が、安全に怖がっているだけである。
せっかく「寄生虫としての生」というちょっと面白いモチーフがあるのに、それを性急に「意識の共存在」というアナロジーへと落とし込んでしまうのももったいない。たとえば寄生虫に意識があるとして、彼らは言語をもちうるのだろうか、とか。