ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

Outline:アウシュヴィッツにおける「回教徒」muslimの分析を通して、人間が主体として現れるとき、その中に「むき出しの生」bare lifeを含んだ形で現れるという主体の構造を明らかにする。また、そのような主体との関連において、言語や共同体を再定義する。


・むき出しの生bare lifeと恥ずかしさShamefulness
アガンベンによると、古代ギリシアにおいて生lifeを表現する言葉は二つあったという。ひとつは公共的pubilicな生を表現するbios、もうひとつは「生きている」という単なる事実mere factを表現するzoeである。政治学においてこれまで重視されてきたのはbiosであるが、共同体が成立する際、ホモ・サケルHomo sacerとしてzoeが共同体秩序の「例外」exceptionとして位置づけられたことにアガンベンは注目する。
アガンベンにとって近代とは、zoeとしての「むき出しの生」bare lifeという「例外」が、共同体をめぐる思考の中心に現れる時代であり、アウシュヴィッツのような強制収容所concentration campはその象徴的事例である。

例外空間としての収容所の逆説的な立場について考察しなければならない。それは、通常の法的秩序の外に置かれた領土の一片であるが、たんに外部の空間のなのでもない。収容所に排除されているものは、例外という語の語源的な意味(つまりex-capere)に従えば、外に捉えられている。つまり、自らの排除そのものを通じて包含されている。(1)

アウシュヴィッツについての考察は主に、隠語slangで「回教徒」muslimと呼ばれた人々についての分析によって進められる。「回教徒」とは、自力で語ることのできない「むき出しの生」bare lifeとして生きているため、アウシュヴィッツについての証言testimonyから必然的に欠落してしまう人々である。しかしアガンベンは、この「回教徒」の存在が、「種〔human being〕に帰属しているという究極の感情」を示しているという(2)。この感情が「恥ずかしさ」として現れることを、アガンベンは「il y a」(there is〜)をテーマとした初期レヴィナスの分析を通して論証していく。

レヴィナスの分析をさらに進めてみよう。恥じることが意味するのは、次のことである。すなわち、引き受けることのできないもののもとに引き渡されることである。しかし、この引き受けることのできないものは、外部にあるものではなく、まさに私たちの内密性……(たとえば私たちの生理学的Physiologicalな生そのもの)である。すなわち、ここでは、自我は、それ自身の受動性passivityによって、それのもっとも固有な感受性によって凌駕され、乗り越えられる。しかし、自分のものではなくなり、脱主体化されたこの存在は、自己自身のもとへの自我の極端で執拗な現前でもある。…すなわち、恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中身しかもっておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる。主体化にして脱主体化という、この二種の運動が、恥ずかしさである。(3)

つまり「恥」とは、私が語ることの内に「むき出しの生」bare lifeという、語りえないにも関わらず語らずにはいられないものが含まれていることの証明である。この発想は、ジュリア・クリステヴァの「おぞましいもの」abjectionという概念と共通する点が多い。人間はabjectionを自己から排除することによって主体を確立するが、そうするのは一方でabjectionが魅惑的であるためでもある(4)。

人間が生起するtake placeのは、生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非‐人間と人間のあいだの断絶においてであるからである。すなわち、人間は人間の非‐場所において、生物学的な生を生きている存在と言葉のあいだの不在の結合において生起するtake placeのである。(5)


・潜勢力potentiality
アリストテレスの解釈を通してアガンベンは、「〜する」to doと「〜することができない」be not able to doの間に、「〜しないことができる」be able not to doという状態に注目する。アガンベンによると、この「〜しないことができる」という潜勢力potentialityが存在しなければ、「〜する」こと(現勢力actuality)も存在できない、という。

じっさいにも、動物たちは言語活動が欠如しているわけではない。逆に、動物たちはつねに絶対的に言語である。動物たちにおいては、「純真無垢な大地の神聖な声」……は中断も分裂も知らない。……これにたいして、人間は、幼年期infancy〔言語活動をもたない状態〕をもっているために、つねにすでに語る存在ではないために、この単一の言語を〔ラングとパロールに〕分割する。(6)

ラングとパロールのあいだの分裂もなければ、言語の歴史家になることもないだろう。しかし、そのような人間は、まさにそのことのために、直接その本性に結びついているだろう。つねにすでに自然であって、このことのうちには、いかなる方面からも、歴史のようなものが生み出されうる不連続や差異を見出すことはないだろう。……歴史は語る存在としての人類の直線的時間にそった不断の進歩ではなく、その本質において、間隙であり、不連続であり、エポケーなのだ。(7)

では、人間が言葉を話すことは、潜勢力を失うことなのか。そうではない。

存在しないことができるという潜勢力は単に取り消されるのであってはならない。存在しないことができるという潜勢力は、それ自体へと向きなおり、存在しないのではないことができるnot“be able not to do”という形を引き受けるのでなければならないだろう。(8)

言葉を話すことのなかに、言葉でないもの(非‐言語)が含まれている。アガンベンバンヴェニストの言語論に依拠しながら、以下のように述べる。

「わたし」、「あなた」、「いま」、「ここ」といったシフター〔陳述指示語〕の意味のようなものを定義することはたしかに可能であるが……その意味は言語活動のほかの記号になら通用する辞書的な意味とはまったく別のものである。わたしは観念でも実体でもない。言述行為において言表がかかわるのは、そこで語られることがらではなく、それが語られているという純粋な事実である。(9)

じっさい、〈わたしは話す〉という言表を本当にまじめに受け取るということは、もはや言語活動をそれの所有主にして責任者である主体による意味の伝達や真理の伝達と考えないことを意味する。(10)


(1)ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』1996年(高桑和巳訳、以文社、2000年、45頁)
(2)ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』1998年(上村忠男・広石正和訳、月曜社、2001年、90頁)。
(3)同上、141−142頁。
(4)ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』1980年(枝川昌雄訳、法政大学出版局1984年)。
(5)アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』183頁。
(6)ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』1978年(上村忠男訳、岩波書店、2006年、91頁)。
(7)同上、93頁
(8)ジョルジョ・アガンベン「思考の潜勢力」1987年(『思考の潜勢力』所収、高桑和巳訳、月曜社、2009年、348頁)
(9)アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』186頁
(10)同上、190頁