ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

Outline:バタイユハイデガーの読み直しを通して、「個人」や「主体」に還元されない人間の単独性=特異性Singularityのあり方を解き明かし、かつ、それとの関連において共同体Communityの概念を再定義する。


ノスタルジアとしての共同体
近代とは、一般的に、「共同体」が解体された時代として定義されている。このとき想定される「共同体」とは、「ある同一性identityが複数性pluralityのうちに分有され伝播diuuysionされ、浸潤impregnationされることによって作られるのであり、その複数性を形成する各成員はまさにそれゆえに、共同体の生きた身体living body of communityとの同一化identificationという付加的な媒介によってはじめて自己同一化を遂げることになる」(1)ような共同体である。
しかし、このような共同体がかつて存在したわけではない。「実際その歴史のどの時点をとっても、西洋はいつもより古い消滅した共同体への郷愁nostalgiaに浸って」いた(2)。他方、「個人がその本来の規定からして――その名が示しているように、それは原子atomであり、分割しえないindivisibleものである――ある分解作用〔dissolution of community〕の抽出結果として生じたものだということは明らかである」(3)。つまり、「個人」は「他者」や「共同体」を必要とせず、それ自体で完結する主体として定義される。ナンシーはこのような「人間の人間に対する内在immanence of man to man、あるいはさらに、絶対的に、すぐれて内在的存在であるとみなされた人間considered as the immanent beingこそが、共同体の思考にとっての躓きの石stumbling blockとなっている」と考える(4)。


・死と共同体
ナンシーはハイデガーによる死の分析を援用し、まず、私にとって最も固有のものである「私の死」について「私は死んだ」と語れない以上、私がそれ自体として完結した主体ではないと述べる。問題は「他者の死」についてである。ナンシーは『存在と時間』から次の文章を引用する。

われわれは本来的な意味authentic senceで他者の死を体験しはしない。いつもせいぜいのところ「立ち会って」there alongsideいるだけである。[…]死は、それが「存在する」限りでは本質的につねに私のものなのである。(5)

ナンシーが分割=分有sharingとしての共同体が現れる契機を見出すのは、まさにこの不可能性においてである。「死の営みをなすことの不可能性impossibility of making a work of deathが「共同体」として刻み込まれ、担われるのである」(6)。

つまり私は、他人の死のうちに再認recognizeしうるものはなにもない、ということを再認しているのだ。このようにしてはじめて分有sharing――そして有限性finitudeが刻まれるのである。「死に含まれている終わるということthe ending implied in deathは、現存在Daseinが〈終わりにあることBeing at an end〉を意味するのではなく、この存在者の〈終わりへと関わる存在Being-toward-the-end〉を意味している」。似た者like-beingのもつ類似は、「終わりへと関わる存在」たちの出会いから生まれるが、この終わり、彼らの終わり、そのつど「私のものtheir end」(あるいは君のものmine end)であるこの終わりが、彼らを同じ一つの限界によって近似させると同時に分離するassimilates and separates in the same limit。その限界に対してあるいはその限界のうえに、彼らは共‐出現compearするのである。(7)

つまり、他者の死に立ち会うという経験は、死んでいく人(他者)の有限性finitudeを示すと同時に、死んでいく人に同一化identificationすることのできない私の有限性を示している。この意味で、私と他者は「似ている」。

分有とは次のような事態に対応している、すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示presentingすることによって、自我の外にある私の実存existence outside myselfを開示するのだ。……共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別のものではないのだCommunity itself,in sum,is nothing but this exposition。(8)

・特異性singularityと共同体
ドゥルーズにおいて特異性とは、前‐個体的な場(潜在性=潜勢力potentiality)から諸々の存在者がどのように個体化individuationされるのか、という文脈において用いられる。このとき前‐個体的な場は、AとBの差異、AとCの差異、といった、相互関係によってのみ意味をもつ内容によって規定されている。このような場において個体化が生じるポイントを特異性(特異点)と呼ぶのだが(9)、ナンシーの用いる「特異性」もこれとほとんど同じである。

特異性の背後には何もない――しかし、その内におけるその外にoutside it and in it、それを特異性として配置し分有するdistribute it and shares it out as singularity非物質的かつ物質的な空間が、ほかの特異性たちとの境界、あるいはより正確には特異性なるものの境界confines of singularity、つまり他性alterityの境界が、特異性と特異性それ自身との間にある。(10)

ナンシーにとっても、特異性はほかの特異性との差異、共‐出現compearしている他者との差異を含意しており、それ以外の何か(「私」に固有originalの性質)を含意しない。

特異存在は、諸存在の混沌とした未分化な同一性undifferentiated identity of beingという背景、諸存在の一方向的な背景という基底background of their unitary assumption……そこから生い立つものでもない。それは有限性finitudeそのものとして出現するのだ――最後に(あるいは最初に)その同じ特異性の境界で、他の一つの特異存在と皮膚を(あるいは心を)触れ合うことによって。その特異性はそのようなものとして、つねに他なるものであり、つねに分有され露呈exposedされている。(11)

しかし、私と共‐出現するという「他者」とは、どのような存在なのだろうか?
1.「私は死んだ」とは言えないということが共‐出現を示すのだとすれば(つまり、誰かによって語られることがその条件だとすれば)、「彼は死んだ」と語られることのない他者とは共‐出現していないことになるのではないか。
2.ナンシーにおける共‐出現が時間的な同時性を含意しているのなら、遅れて現れるような他者の存在が抜け落ちてしまわないか?

この空間化は時間それ自体を空間化し、時間の連続的現在から時間を空間化する。…/時間が自らの空間化を通して、われわれに、「われわれ」として存在する可能性を与えるのであり、あるいは少なくとも、「われわれ」とか「われわれの」と述べる可能性を与えるのだ。「われわれ」と述べるには、われわれが共通の時間というある種の空間のうちに存在していなければならない。(12)

この「共通の時間」=歴史は、どのようにして「われわれ」の境界線を引こうとしているのだろうか(それとも境界線など存在しないと考えているのだろうか)?

(1) ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考』1999年第3版(西谷修安原伸一郎、以文社、2001年、19−20頁)。
(2)同上、20頁。
(3)同上、8−9頁。
(4)同上、7頁。
(5)同上、60頁。
(6)同上、28頁。
(7)同上、60−61頁。
(8)同上、49頁。
(9)ドゥルーズ『意味の論理学』186−193頁。ようするに前‐個体的な場ではデカルト座標(Cartesian Coordinates)のような数値化された位置は存在しない。
(10)ナンシー『無為の共同体』50−51頁。
(11)あれ、どこだっけ?
(12)同上、198−199頁。