『アトラク=ナクア』についての雑感

アトラク=ナクア 廉価版

アトラク=ナクア 廉価版

黄色と、黒と、白と、赤。
毒々しい斑の情景を織り成しに、絹のような女が人海に住まう。
女は何尺も伸びる爪を持っている。
女は男女を狂わす妖の術を持っている。
女は。
冷たいコンクリートが嫌いではない。
硝子の板を嫌いではない。
人の手になるものの冷たさは、土の温もりよりも己に相応しいと微笑った。
夜がきて。
新円の月の明かりが廊下をほの白く侵す。
黒々とした山から来る風がグラウンドの砂利を吹き均す。
その光景を、その音を、人は知らない。
繰り返される夜はすべて女のもの。
女は人知れずまやかしの糸を紡ぎ続ける。
(プロローグ)

宿敵との戦いで傷ついた女郎蜘蛛の初音は、傷を癒すために人の精気を求め、とある学校に巣を張る。これは、あやかしの術によって学生になりすました初音と、彼女に助けられた「ちっぽけな、ただの人」である奏子の物語。
映像を喚起するような文章、叙情的な音楽、過去と現在、善と悪、明と暗といった対極に同時に立つ異能者を描き出す印象的なストーリィ。総体として非常に完成度が高く、エロゲ史的にも重要で、文句なしに面白いのですが、感想が非常に書きづらい作品でもあります。
まず構成について。物語は大きくわけて、初音と奏子との出会いを描いた導入部、物語の約3分の2を占める選択式の贄(=初音への生贄)集め、そして宿敵との対決を描いた終章、という風に分類できるのですが、中盤の贄集めの部分を読み飛ばしても問題なく話は通じてしまいます。かといって中盤がつまらないのかと言えばそうでもなく、「化け物」である初音の超越性、その初音に依存することでこの世のあらゆる恐怖から逃れようと願う奏子の痛み、と同時に奏子の「このまま初音についていっていいのだろうか?」という内心の不安もまた、克明に描かれていたように思われます。

つぐみは怯えている。怯えるのはよくわかる。どれほど怖いかも。でも、この子は……――この子は、経験が無いんだ。その身に理不尽な暴力を加えられ、また、それだけでは終わらないだろうという予感に怯えながらも、つぐみはまだ……まだ、絶望的な恐怖――或いは、恐怖してすら救われる事のない絶望――を、味わったことがない。
かなこは少し悲しくなった。とっくに、考えない様に麻痺させた事のはずなのに、怯えるつぐみを見ていると思い出す。自分ひとりが、あんな目にあったのだと。他の子は、そんな風ではないのだと。
(ツグミ編)

終章以外は超絶した態度を保ち続ける初音に対し、奏子は揺れています。どうしようもないような鬱屈や痛みがあるとして、それをむき出しにして交われる相手を選び、その相手と閉鎖的な関係を結ぶのか。それとも鬱屈を押さえ、広い世界のなかで生きていくのか。奏子の傷の深さを考えると、彼女が初音への依存から早々に脱して生きていくことは難しいのかもしれません。だから、初音への依存から始まったこの物語が、どのような選択肢を選んでも結局は初音から逃れられないまま終わるのも、道理といえば道理なのでしょう。
ただ、そんなふたりの関係を、この物語が肯定しているのか否定しているのか。あるいはその両極に同時に立とうとしているのか。よくわからない。

「私っ……!……姉様、私、贄になりたかった……退屈なんてしない、姉様のことずっと考えてられるなら、永遠だって欲しかった……」
「……」
初音は、黙って奏子を見つめた。/生き飽きてしまった自分と、耐えられるというこの娘の違いを考える。
(終章)

この二人は違うのか。違わないのかもしれない。初音が「生き飽きて」しまったように、奏子もやがて永遠に耐えられなくなるのかもしれない。その辺は全然わからないです。
しばしば「女の情念を描いている」と評される本作ですが、確かにその通りなんですけど、彼女たちの関係性を何となく不健全だと感じても、それを不健全だからという理由で否定することは誰にもできないわけで。奏子は過酷な現実の外部として初音を求め、初音もまた奏子を必要とした。結果として閉鎖的な関係に陥っていくわけですが、そこから超出していく方法はわからない。
この作品の舞台である「学校」もまた、そのようなものであると言えるでしょう。家から飛び出して学校という外の世界に来たけれど、学校のなかに入るとそこが内側になってしまう。そこが内なのか外なのかすらわからないから、余計にその外部を想像することが難しくなる。
非常にもやもやした気分にさせられる作品です。この空間的な「外部性のなさ」から脱出するためには時間的な外部が必要で、その意味では後日談が書かれたのも必然だったと言えるのかもしれません(と言いつつ後日談は読んでないのですが)。


そういえば、新潮文庫から出ている森鴎外山椒大夫高瀬舟』の解説にこんなことが書いてありました。

一般に、いささかの人間嫌いは、むしろ文学的な精神の不可欠の要素というべきものであるが、鴎外を含めて、日本の近代作家にそれがとりわけめだつことは、否定できない。……鴎外にとっても漱石にとっても、荷風志賀直哉にとっても、内面の名状しがたい鬱屈の気分は、時代の共通の病として重くのしかかっていた。荷風のいう「私生涯」のなかでは、すべての鋭敏な青年が不機嫌だったのであって、それを根本的に解消するのは、文学という方法によっては不可能なことであった。
しかし、それにしても、この鬱屈を剥きだしにして他人と交わるか、あるいは、これを抑えて「技巧的生活」のなかで交際するか、というのは決定的な違いであって、それが作家の資質の全体と結びついていたことは、無視できない。……鴎外と漱石という二人の近代作家は、どうやら、この点で対蹠的な姿勢を選んだように思われるが、その事実を象徴的に暗示する挿話として、二人の書いた二葉亭四迷への追憶の記が思いだされる。……(漱石と四迷の場合)明らかに二人は不機嫌を共有することで睦みあい、精神の裸体を見せあいながら、しかも漱石は、この程度の交流は真の人間的な「了解」にはなおほど遠い、とはがゆがっていた。
これにたいして、鴎外は『長谷川辰之助』という一文のなかで、一時間に満たない四迷との面談を振り返って、その淡々たる清談の思い出に快く満足している。
――山崎正和森鴎外 人と作品」(森鴎外山椒大夫高瀬舟新潮文庫、1968年)――

アトラク=ナクア』で描かれた「不機嫌さ」、そしてその不機嫌さを共有する初音と奏子との繋がりは、鴎外よりも漱石的な繋がり方に近い感じがします。山崎氏の解説では漱石は否定的に言及されていますが、たぶん、そのような繋がり方を完全に否定することはできないでしょう。「不機嫌を共有する」繋がり方が閉じたものになりがちであるのは事実だとしても、開かれた関係になっていく可能性がないわけではない。では、どのようにして自分たちの関係性を反省的に捉え返し、開けていくか――『パルフェ』の台詞を借りれば「二人で両手を取りあって、狭い世界を作ったりしない。片手は、みんなと、外と、繋がろうって、思う」――を考えていくためには、まあ、とりあえずグラムシでも読みながら考えてみようと思っています。