『最果てのイマ』論(補遺)―作家の亡霊の行方、あるいは対話の効用について

一連の『イマ』論は再編集のうえでthen-d氏企画のシナリオライタ論集に寄稿することになりそうなのですが、正直に言うと、その企画を半年ほど前に聞いたときは「いま作家論をやる意義があるのか?」と思いました。ロラン・バルトが「作者の死」を宣言してから半世紀近くたった現在、「作家」は亡霊のようなものではないだろうか、と。
そんなわけで静観を決め込んでいたのですが、この半年の間で多少考えが変わったのと、奇妙な縁から声がかかったので、こうして田中ロミオ論を書いてみた次第です。こう言うといかにも機会主義的な感じがしますが、自分のなかでそれを正当化できなければ、さすがに2万字の作家論は書かなかった、と思います。

作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった「作者」をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家はいくども読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される「作家」が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。
――柄谷行人マルクスその可能性の中心』――

フーコーによって政治学から「王の首」が切り落とされながら、くり返しその存在が参照されるように、「作家」の存在も死を宣告されながらその場に留まろうとする、亡霊のようなものなのかもしれません。我々にできるのは、その亡霊を消し去る最終的な解決ではなく、亡霊の姿を何度も書き変え、くり返しその内実を変えていくことだけなのでしょう。
ただ、「作家」という亡霊が存在するからこそ、我々は「同じ何か」について論じることが可能なのだ、とも言えるわけです。正確には「同じだと思っている何か」について論じているわけですが、対話を可能にする条件として必要だからこそ、作家という亡霊は何度でも回帰してくるのでしょう。

哲学的友情というのはとりわけ現代では、次のようなことになるでしょう。つまり、ただひとつの哲学的言説というのはありえず、哲学的言説は必然的に分有されるということです。哲学はその全歴史において、声の散逸から、声の分割から出発して真理を求めてきました。この分割は近しさと対立とを帯びていますが、それが思考を構成するものなのです。それがプラトンにとって哲学の大いなる母胎であった対話というものを構成するものだったのと同じです。
――ジャン=リュック・ナンシー「ナンシー、他者の心臓」(『侵入者』所収)――

私は私自身の言葉を所有することができない。田中ロミオ田中ロミオ論と一致しないように。それが分有という言葉の意味であり、私の言葉は、私とあなたとの「隙間」に生まれてくるのです。
田中ロミオをめぐる対話1 - Togetter
田中ロミオをめぐる対話2 - Togetter
田中ロミオをめぐる対話3 - Togetter
参考資料として、主にttt氏との対話をまとめた「田中ロミオをめぐる対話1・2」と、『イマ』論補遺の「田中ロミオをめぐる対話3」にリンクを張っておきます。個人的には2が面白いかな。ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』に登場する「メシア的な時間」についての話が出てきますが、以前掲載してまったく反響がなかった「表現者と知識人」という記事とも関連してくるように思われます。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20100222/p1
私がいまこうして書いている言葉も、すぐに忘れられ、埋もれてしまうでしょう。しかし消え去ってしまうわけではなく、いつか誰かによって救い上げられるときを待っている(それは単純な復活とか再生とかではなく、それを書いた私が予想もしなかった、しかし確かにそうとも解釈できる読み直しを伴って)。そんな楽観的予測を可能にするのが「メシア的な時間」という概念です。それを前提にすることで表現行為は脱身体化され、超時代性をもつわけですが、同時にそれが読み手と書き手の双方にある種の超越意識を喚起するわけです。田中ロミオ作品の批判的検討のとっかかりとしては、その超越意識・脱身体性が有効なのではないかなぁ、と。
というわけで、『最果てのイマ』論は今回でおしまいです。ご意見ご感想お待ちしております。

忍「信仰には理屈がない。相手がどうあっても異存(ママ)してしまおうという……そういうずるさが見える。/信頼には覚悟がない。相手が裏切ったら信頼というものは壊れてしまうから」
あずさ「でも信じちゃいけないということはない」
忍はあずさの顔を見た。
あずさ「でしょ?」
――伊月笛子編「笛子を想って」――