東京都の条例問題に端を発する表現規制に関する議論が活発に行われていますが、2年前に『School Days』の最終回が放送を自粛した際の「こんなグロい作品は自粛して当然」みたいな論調はどこに行ってしまったのだろう、エロはいいけどグロは駄目なのか、それとも問題の位相が違うのか、位相が違うとすればどのように違うのか、ということを考えているうちに発言のタイミングを逃してしまいました。
まあ、私自身も当時とは考えが変わっているわけで、誰かを批判したいわけではありません。自主規制と行政による規制を同一視するべきでもないでしょう。ただ、それが対話の場に向けて開かれないまま行われた(自主)規制であるという点では同じなわけで、「School Days問題」を現在の視点から改めて検討してみると面白いかもしれません。
対話の場、という言葉が出たついでにもうひとつ。
ポルノ規制の問題から派生して、男性から女性に向けられる性的抑圧、女性に対する男性の潜在的な加害者性について、いくつか興味深い意見が出されています。おそらくそれらは正しいのでしょう。では、その抑圧の構造をどのようにして変えていくのか?
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act9_imamura.html
リンク先では森崎和江『第三の性』の検討を通して「対話」の可能性が追求されています。私自身、対話という場を通して人と人の間に存在する断絶を明らかにすることは大切であり、逆説的ではありますが、決して越えられない断絶があるとわかったときに初めて絆が生まれるのではないか、とも思っています。「自分自身とは恋愛できない」と誰かが言っていましたが、それは正しい。そのとき、わたしとあなたが分り合えないと感じたとき、上に述べたような新しい関係性へと発展していくか、分り合えないから喧嘩してしまうか、そのどちらになるかが何によって決まるかを考えなくてはならないでしょう。それは具体的な作品、事件に即しながら考えるしかないわけですが。
田中ロミオは『神樹の館』でこう書きました。世間は傷の舐め合いを馬鹿にするが、「舐め合う相手がいることの有り難さに気付いていない」。対話の始まりはそれでいいのです。しかし、弱い人間同士であってもその間に亀裂がないわけではない。相対的な弱者がいて、相対的な強者がいる。対話を通してその権力関係に向き合い、認識を変化させることで権力の布置に影響を与え、小さなレベルから世界を変えていくことができるのではないか。それは、傷の舐め合いを閉じた世界にしないためにも、片手を互いに繋ぎながら残った片手を外の世界に向けて差し出すためにも必要なことではないか、と思います。
こうした過程において「対話」が果たすべき役割は非常に大きい、と言えるでしょう。それは互いに分り合い、同じものになるために行われるではなく、断絶を徹底的に追及したあとに残る普遍的な何かを探求するために行われるのではないか。などと色々思うところはあるのですが、いまいち考えがまとまっていません。