エロゲに関して最近考えたこと

日本人に向けて日本語で語りかけることは、しばしば情報の伝達になぞらえられる。そこで隠蔽されるのは、ひとつは見知らぬ他者の存在であり、もうひとつは私自身のハイブリッド性だ。柄谷行人は「私」の内面には必ず外部が入り込んでいる、だから内/外の二項対立は不可能だと述べたが、そうではなくて、柄谷においてもなお均質的で固体として捉えられる内面そのもののハイブリディティにこそ注目しなくてはならない。均質言語的な語りを避け、日常の中の他者に向けて混成言語的な語りを行うこと、その方法と倫理を問うこと。「私とは異なる他人に向けてものを書く」人間である私はそういうことを考えなくてはいけなんだろうなー、と思う。
そういう私がエロゲの中に見いだすのは、他者を渇望しながら他者に触れることを恐れるような躊躇い、あるいは次々に現れる他者を私の一部として取り込もうとする働きである。人間は「労働」(畑を作ったり河に橋を架けたり)によって、人間にとっての他者である大地や河を私たちにとって関係のあるもの、私たちの一部として取り込むのだとレヴィナスは説いているが、エロゲを読むこともクリックという労働を通して物語を「私の一部」に取り込むことなのかもしれない。また、自己意識を確立するためには「私」の存在を承認してくれる鏡のような他者が必要だとヘーゲルも書いているが、そういう鏡のような他者こそがエロゲのヒロインである、と言えるのではないか。
恋愛の逆説、つまり誰かを好きになることは、その好きなあなたを変えようとする行為であることを考えれば、恋愛とは相手の中の他者性を追い求めることである。レヴィナスは愛撫を食事の比喩で捉え、愛撫とは他者を決して食べつくせない(理解しきれない)ことを知りながら、それでも渇望する切なさがあらわれる行為だと考えた。さまざまなモード(制度)に基づいた衣服は、私とあなたが何物かを共有していることを示している。愛撫はまず衣服を脱がせることから始まる。それは、汲み尽くせない他者を渇望しているから、ではないだろうか。そう考えると、「Hシーンはすべて半裸です!」みたいな売り文句が意味をなすエロゲって何なんだろうね、と思わざるを得ない。「ツンデレ」とか「ヤンデレ」みたいな属性に関しては、恋愛による変化を予め織り込んでおく認識の方法であり、逆説的な言い方をすれば「他者性を内包した自意識」のようなもの、だろうか。
話が飛ぶようだけど、現実社会における「良妻賢母」観というのは、「結婚するまでは多少の逸脱は認めます」という考えとセットであったように思う。私が出会い、会話する人すべての他者性を真剣に受け止めることは出来ない。しかし恋愛をし、セックスをする過程でそれに向き合わざるを得ない。その一番危ないところにだけあらかじめ防波堤を作っておく。だから、「ツンデレ」とか「ヤンデレ」って、どこまでいっても「良妻賢母」のバリエーションでしかないように思う。
以上の点を考えると、「恋愛」「セックス」「他者」といったいかにもエロゲらしいモチーフを真摯に受け止めた作品は、田中ロミオの『CROSS†CHANNEL』や『家族計画』などごく少数のものに限られているのではないか、と思う。『CROSS†CHANNEL』に関しては、いまだにあのシナリオに対して整合的な説明をすることは出来ないのだけど、そこには「どうしようもないわかりあえなさ」と、それでもわかりあおうとすることを諦められない、痛切さがある。最後に太一がひとりで放送するシーン、あそこは語られている内容よりも、語らずにはいられない太一の心情にこそ共感する。夏目漱石の『こころ』には「私は死ぬまえにたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。」という台詞があるのだが、それを思い出さずにはいられない。孤独の深さ、個々人の闇の深さ、そういったものを知り、それでもなお他者と繋がりたいと思う、そんな切実さを感じる。
たとえば、lightの『R.U.R.U.R』。

「『ひとりに しないで』それは天然・被造物をとわず、この宇宙に住むすべての<こころ>が、いちばんねがうことでした」
「だから、子は泣いてまででも世に生まれ、母は、おなかを痛めてまででも子を産むのです」
「この世のありとあらゆる生命は、涙を流して生まれいで、ふるえながら死ぬのです。さけびにも似た悲しい<ねがい>。これこそがすべての知性と生命の、そんざいする意義そのものなのです」

人間は自分自身を所有していないし、かといって誰かに所有されているわけでもない。「私は死んだ」ということは出来ないし、「あいつが死んだ」と言ってもその人の死を代わりに体験したわけではない。「私」という存在は他者からも私自身からも疎外されているからこそ、空っぽの「私」を埋めてくれる何かを渇望せずにはいられない。だから恋愛は「さけびにも似た悲しい<ねがい>」と言えるのではないかと思う。