J.J.ルソー『告白』についての覚え書き

告白〈上〉 (1965年) (岩波文庫)

告白〈上〉 (1965年) (岩波文庫)

・神の栄光をたたえることを主眼としたアウグスティヌス『告白』に対し、ルソーは「自我の特色」を明らかにするため、自己の内面へと降りていく。

「わたしの告白の本来の目的は、生涯のあらゆる境遇を通じて、わたしの内部を正確に知ってもらうことである」
中巻12〜13頁

ひとりひとりの人間がそれぞれ独自の価値をもつとする立場にたつ近代的な自叙伝は、ルネッサンス期になってはじめてあらわれる。そしてチェルリーニの自伝などがあるが、率直に、あらわに全存在をしめすという近代的告白は、ルソーをもって開祖とするのである。
下巻「解説」

・行為ではなく、その動機を重視する告白について。

肉欲がすべての罪の根となると同時に、その最も重要な時点が、行為そのものから、欲望の惑乱という、知覚し言葉に表すのが如何にも困難な領域へと移るのだ。けだしそれは人間をそっくりそのまま、しかもその最も秘密な形において捉えてしまう悪だからである。
ミシェル・フーコー『知への意志』28頁

・告白と「わたしはひとり」という強烈な自負心

「わたしはこの男よりもいい人間だった」といえるものなら、一人でも言ってもらいたいものです。
上巻11頁

太宰治人間失格』のクライマックスが「私たちの知っている葉ちゃんは(中略)神様みたいないい子でした」という風に終わっていることにも通じる問題ではないか。

私は何も隠していない、ここには「真実」がある……告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが「真理」を語った、ということを主張している。(中略)告白という制度を支えるのは、このような権力意志である。私はどんな観念も思想も主張していない、たんにものを書くのだと、今日の作家はいう。だが、それこそ「告白」というものに付随する転倒なのである。告白という制度は、外的な権力からきたものではなく、逆にそれに対立してでてきたものなのだ。
柄谷行人日本近代文学の起源』101頁

ルソーが生きた時代というのは、著述家として生計を立てていくことが可能となる最初の時代であり、『告白』は権力のアウトサイダーとしてそれに対抗し、著作によって大衆に語りかける近代知識人の誕生を告げる作品でもある。

むしろ知性がなくても、知識人になれる。なぜなら、知識人とは大衆でないという自己意識であり、しかもその根拠がたんに知識を否定する自己意識にあるからだ。……知識人はその最初から大衆の獲得を必要としている。その理由は、自らの根拠が大衆にしかないからである。……またそのような「大衆」も彼らに見いだされたのである。
柄谷行人漱石論集成』563〜564頁

・「告白」の風景

『告白』のあらわれた当時、東洋は知らず、ヨーロッパ文学においては、こうした美しい自然描写はかつてなかったのである。どうしてルソーは自然美を発見しえたのであろうか。
下巻「解説」

永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。
三島由紀夫仮面の告白』書き出し部分

ここには、「風景」が孤独で内面的な状態と緊密に結びついていることがよく示されている。この人物は、どうでもよいような他人に対して「我もなければ他もない」ような一体感を感じるが、逆にいえば、眼の前にいる他者に対しては冷淡そのものである。いいかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner man において、はじめて風景がみいだされる。風景は、むしろ「外」をみない人間によってみいだされたのである。
柄谷行人日本近代文学の起源』24頁

デカルト的「内面」の発見が同時に「非自己」としての風景の発見を伴うということ。知識人の誕生が同時に「非知識人」としての大衆の発見を伴っていたことを想起させる。
柄谷の考えとしては、自己の内面の確立が他者の排除を伴う以上、内面は他者性を欠いたフラットなものでしかありえない。だから柄谷は他者性を自己や共同体の外部に求めたのだろう。

たとえば、マルクスは、商品交換は「共同体と共同体の間ではじまる」といっている。共同体の内部においても、交換はあり、レヴィ=ストロースが明らかにしたように交換体系がある。しかし、大切なのは、共同体と共同体の間での交換なのだ。……いいかえれば、それは、共同体(言語ゲーム)と共同体の「間」において、いかにして交換(コミュニケーション)がなされうるかという問いなのである。
柄谷行人『探求Ⅰ』講談社学術文庫、18頁

その一方で柄谷は、外部が内面の延長であるような「江戸文学の伝統」にも期待を抱いているように思える(それはつまり、内面に外部が食い込んでいるということでもある)。私はシャフトのアニメを見ながら、よくそのことを思い出す。