『最果てのイマ』論(5)―異質性という絆

最果てのイマ

最果てのイマ

(承前)
「私」は傷つきやすく、他者とのコミュニケーションの主体として成立しようとした瞬間に、ほころび始めてしまう。私にとっての他者もまた、つねに・すでに傷ついており、私はそれをどうすることもできない。この可傷性を我々が互いに抱えているということこそが、人間の共同性について、主体として自立した個人から出発し、個人を越える何らかの実体として構想することを断念させるのである。
可傷性が人と人の間に隔たりをもたらしている。しかし、次のように考えることもできるだろう。私たちは互いを隔てる「間」によって切り離されているのではなく、むしろ、何の関係性も持たなかったかもしれない人々が、「間」の存在によって繋がったのかもしれない、と。私たちが可傷性によって隔てられているのと同時に、それでも「私たち」という言い方ができるのは、私たちのすべてが可傷性を有しているためである、と言えるのではないだろうか。

忍「やっぱり、笛子は欠けてるね」
笛子「かけてる……わたしが?」
忍「だから気になったんだ/僕らはみんな欠けている。気付かなかった?」
笛子「同じ、においがする」
忍「そうだ。だから集まった/輪っかになって、生きるんだ」
――伊吹笛子編「はじめて笛子と知り合った―B」――

人間の共同性は、どこか性行為に似たところがあるように思われる。自らのもっとも敏感で脆い部分を他者に曝し、傷つける。その傷つきやすい部分によって私たちは隔てられると同時に、結び付けられるのだ。
こう考えてもいいだろう。暗闇のなかに立っていると自分自身の輪郭があいまいになっていくように、他者と接触し、あるいは他者との距離を測り、可傷性を備えた他者を意識することで初めて、私の存在が確かなものになる。他者との接触に先立って私が存在しているわけではない。他者との接触によって、可傷性を備えていることによって、私が存在し始めるのである。それは、ジャン=リュック・ナンシーの言う「分有」の思考を想起させる。

諸々の特異性を通い合わせるものは、たぶん厳密にはバタイユが それらの引き裂きと呼んでいるものではないだろう。引き裂かんばかりのもの、それはほかでもない共同体におけるそして共同体による有限性の呈示である―― 私が服すべき三重の喪、すなわち他人の死の喪と私の誕生の喪、そして私の死の喪という三重の喪の呈示である。共同体はこの三重の喪の導きである。
ジャン=リュック・ナンシー無為の共同体』1983年(西谷修訳、朝日出版社、1985年)

ナンシーはこの「分有」の概念を、ファシズム共産主義という共同体信仰のなかで考えた。全体主義においては個人に先行して共同体が存在したが、全体主義への対抗として、あるいはその経験を経て一般化した自由主義では、共同体に先行して個人が存在し、個人の集まりとして共同体が生まれるとされる。そして共同体の存在を担保するのは、それに属する人間の共通性である。全体主義自由主義のいずれにせよ、共同体は個々の人間を越えたある実体として構想されている。しかし、たとえ人間が社会的・共同的な存在であるとしても、その共同性はいかなる実体にも還元されるべきではなく、ただ人間が傷つきやすい身体によって他者と隔てられているということ、分割が分有されていること、つまり人間が個人として成り立っていることのなかに共同性があるのではないか、とナンシーは考えた。
おそらく田中ロミオもナンシーと同じように、共同体が要請されながらそれが挫折していくような情況を念頭におきながら、実体的な共同体へと回収されない共同性について構想したのではないだろうか。人間の身体は傷つきやすさを帯びながら他者へと開かれている、私が語ることは同時に私が語られる対象になることでもある。このような両義性を人間の可傷性が持っているのであれば、その両義性の隙間から、可傷性を反省的に捉えなおす契機が必要になるだろう。そう、「隙間」の思考なのだ。私と他者、過去と未来、個と集団といった二項対立を無効化する場が、ロミオ作品において特別な位置を占めるのである。

主人「君が目の当たりにしてきた古い座敷や蔵の数々、あれらはいずれも真珠邸の過去の姿。/(中略)/時代に応じて姿を変えてきた。その過去の姿が失われずに積み重なっている――それが真珠邸の在りようだ。」
――『神樹の館』竜胆編6日目――

『家族計画』『神樹の館』そして『最果てのイマ』に登場する「戦後」というモチーフもまた、「私」の存在が歴史的なものであり、他者との関係性のなかで成り立っていることを思い出させてくれる。また、そのような時間と空間のなかで、私たちは他者に対する、そして自分自身に対する戸惑いの感覚を絆とした共同性を模索することになるのである。
共同体と呼ばれる同一性に基づいた絆は、要請されながらも挫折する。このような現状分析から出発する以上、田中ロミオが模索する共同性はそのようなものではなく、決して同一性に回収されることのない、異質性を絆とするものであると言えるだろう。むろん、共同性を模索すること自体が行為遂行的に共同体の構築をもたらす以上、ロミオが求める共同性もやがては同一性へと回収されることは避けられない。その同一性を崩し、再び共同性を模索する。そのような終わりのない反復のなかでのみ、共同性が垣間見られる。その意味で、異質性を絆とした共同性とは、決して現前することのない共同性である。
この共同性が決して現前しないものである以上、その理念によりかかるのではなく、可傷性を備えた私と他者との具体的な交渉の場においてどのように振舞うかが問われているのだろう。「隙間」は特別な場所ではあっても、権力関係から無関係な特権的な場所ではない。逃れられない関係性を引き受けた上で、なお自己と他者、現在と過去の「隙間」から語り続けること、共同性を模索し続けることが求められているのだ。

千鳥「…………約束、しますから」
泣いていた。顔は無表情のまま、瞳だけが濡れて。驚いて、忍の感情は凍結してしまう。
忍「ねえ、さん?」
歪な泣顔に、人間味はない。もしかすると千鳥は、努力して泣いているだけなのかもしれない。/それは、せいいっぱいの、ヒトだ。千鳥の演じるヒト。無機的な人間像。だとしても忍には、
忍「泣いて、くれたんだ」
(中略)
人間は捨てたものではなかった。理解が遅れたけれど、ようやく確認できた。/聖域の外にも、無数の聖域がある。無数の聖域が集まって、大きな界をなしている。/それこそ世界だ。今までの世界である。/抵抗力のない弱い群れではあるが、闇雲に他者に罪を背負わせるシステムではあるが、/交換の仕組みに過ぎないものではあるが、
(好きになれそうな気がするよ、みんな)
好きであれば、殺せると思う。好きだからこそ、奪えると思う。/見ず知らずの誰かに対し、背負う罪悪は苦しいものだ。/だが今、責任をもって、命を預かることができそうだった。/返せる見込みはない。/忍は心いっぱいの賛辞を、滅びる者たちに捧げた。
――戦争編「姉弟」――

共同体という最終的な帰属の場が崩れてしまった後で、自らの居心地の悪さを引き受けながら、なお共同性が模索されなくてはならない。差異と同一性の隙間から語ること。他者に対する潜在的な加害者でありながら、他者との共同性を模索しなければならないという、解決のつかない葛藤を描き続けること。かといってそこに居直るのでもない。「隙間」に踏みとどまることで、そこからしか見えない何かへと突き抜けていくのだ。
ただ、それは田中ロミオよりもむしろ、彼の作品を読んだ私たちにこそ求められているのかもしれない。評論や批評といった既存の表現形式の「隙間」から語ることが、「隙間」に立つことで分裂を起こしたロミオの文体の統一の可能性を模索することが、ロミオ作品の創造的な受容といえるのではないか、と私は思う。