『最果てのイマ』論(3)―社会変革の可能性

最果てのイマ

最果てのイマ

(承前)
このシリーズは「思いついたことをその都度書く」という確固とした方針に基づいて書いているので、少し脱線して、今回は田中ロミオという作家の現代性についての話から始めてみよう。
田中ロミオの描く「イマ」とは、いったいどのような時代なのだろうか。相互扶助計画『家族計画』――何らかの形で挫折を経験した人々が集まり、再出発を果たすまでを描くこの作品では、しかし、計画そのものは失敗する。また、5つの物語を終えたとき、それぞれのヒロインが抱える問題は、半分程度しか解決していない場合もある。マフィア、売春、借金、虐待といったものに関連するエピソードは、読者に「現実は厳しい」という以上の印象を与えることはないだろう。『CROSS†CHANNEL』――この作品の舞台である「群青学院」には、国民国家の振るう統治権力の歪みが集約されているように思う。社会不適合者を隔離し、まさにそのことによって隔離されたものに烙印を押す。心を数値化し、正常と異常の境界線を恣意的に引こうとする。しかし、物語にとってそれはあくまでも背景であり、主題となることはない。諦念をもって悲惨な社会が描かれているようにも見える。そして『最果てのイマ』。

かつて個人の繋がりが重い時代があった。家族が大切だった時代があった。
互いに報い合う結束が何よりも素晴らしいと断定できた時代があった。
そして今、ひとりひとりが自らの領土を手に入れるようになると……それらの繋がり方は次第に外延に遠ざけられるようになった。
行きすぎた友情は侵略と変わりない。そう叫ばれるようになったからだ。
どこからが侵害で、どこからが絆なのか、判断基準は明らかにはされていない。
自分以外の誰にもわからない。
人が育てた最初の虚無の花は核だが、次に栽培することになったのは自殺の権利である。その萌芽は豊かに狂える世代を土壌として確かに生まれ始めていた。
――伊吹笛子編「白紙委任」――

希望はすべて過去のものになってしまった。核兵器の発明は戦争と破滅をイコールで結び、「希望は戦争」などという甘えを許さない。権利意識の拡大は、個々人の連帯を通した社会変革の可能性を奪った。端的に言えば、革命の起こらない世界であると言えるだろう。事実、この物語で描かれる「革命」は失敗し、それ以外の政治に関するエピソードも一様に精彩を欠く。
適切な比較対象とは言えないかもしれないが、国家制度の内部から制度を越えていこうとする人々を描いた『群青の空を越えて』や『車輪の国、向日葵の少女』といった作品においては、結局は国民国家の逃れがたさを知ることになるものの、それに対抗しようとする意志は肯定されていたように思う。しかし、田中ロミオ作品において政治は主題になり得ない。暴力的な革命の可能性がすべて潰えてしまったところから、彼は物語を紡ぎだそうとするのである。
批判することは容易い。この世界は理不尽で満ちていて、制度的な暴力や差別は至るところで行われている。それを「他者の拒絶」という一般論に押し込め、具体的な暴力を「フリークス」として戯画化し、「歴史の終わり」などという冗談を真に受け、世界を変革の可能性などないかのように描く「非政治的」な作品である、と。しかし、重要なのは理論を批判することではなく、理論の出発点とその限界を画定することであろう。田中ロミオの議論は、制度的な変革の可能性を追求するのではなく、「私」と「他者」を相容れないもののように描く二項対立的思考を脱構築することで、人間と社会そのものの変容をゆっくりと、何気ない日常のナラティブの中で推し進めていくものであるとみるべきなのだ。
CROSS†CHANNEL』や『最果てのイマ』の、結論のわかりづらさもそこに由来しているように思われる。前者ではいつのまにか太一が「人間性」を獲得し、後者ではいつのまにか忍が「他者と生きることの不安」を克服しているが、その理由が明示的に語られているわけではない。むしろ、彼らが心の平静を得るずっと以前から行ってきた日々のナラティブこそが「答え」なのだ。どちらの作品においても、クライマックス近辺で主人公は最も身近な他者と出会う。いや、それは出会いというにはあまりにも身近であり、独立した個人であると思っていた自己が、他者の中で生きていたことを知ることになった、と言うべきだろう。こうした主体観念の変容が、これまで繰り返してきた日々のナラティブに答えがあることを教えることになる。が、この話は次回に回すべきだろう。


前回から引き続き、他者と出会うという経験について考えてみよう。まずは、ジャック・デリダの「歓待」の思想に注目してみたい。
「歓待」とは何だろうか。それは、全くの無条件で他者を受け入れることである。言葉が通じなくても、宗教が異なっても、思考様式が異なっても、生き方が異なっても、である。極端な話、テロリストでさえも。確かにそれは極端な話ではあるのだが、真の意味での他者とは、原理的に理解不能な存在ではないだろうか。他者とは理解不能であり、異邦人であり、狂気である。それを受け入れることが「歓待」である、とデリダは言う。そんなことが可能なのだろうか。
現実において不可能である、ということはデリダも認めている。警察がテロリストを逮捕することを非難することはできないだろう。政治もまた、議論を成り立たせる一定のルールを共有するものの間でのみ可能となる(シュミットの「友・敵」概念を引き継いだシャンタル・ムフの「闘技的民主主義」がその典型)。あるいは、他者を求めた『イマ』の主人公が、心を失った「フリークス」を他者のカテゴリから除外し、単なる敵とみなしていたことを思い出してもよいだろう。他者の歓待は、実際には条件付きのものにならざるを得ない。だが、無条件の歓待という理念を放棄してはならない。デリダは9.11テロに関するインタビューで以下のように語っている。

もちろん実際には、無条件な歓待を生きることは不可能です。……いかなる国家も純粋な歓待をその法のなかに記載することはできません。ですが、少なくともこの純粋かつ無条件な歓待の思想、歓待そのものの思想なしには、歓待一般のいかなる概念も私たちは持ちえないでしょうし、条件つき歓待のいかなるルール……も規定できなくなるでしょう。この純粋な歓待の思想……なしには、他者、他者の他性、つまり招待されたわけでもないのに私たちの生のうちに入り込んでくる何者か、という観念を持つことさえないでしょう。
――『テロルの時代と哲学の使命』2003年(岩波書店、2004年、199〜200頁)――

「無条件の歓待」という概念なしには、他者の他性を理解することはできない。何故だろうか。
先に「他者とは理解不能であり、異邦人であり、狂気である」と書いたが、その異邦人を歓待することは、我々に翻訳の実践を強いることになる。ちょうど外国語を自国語へと、微妙なニュアンスのずれが生じることを承知しながら翻訳するように、狂気に満ちた他者の言葉は翻訳されなくてはならない。逆に言えば、ある人間を他者として遇するということは、その人間を理解不能な、意味のない言葉を話すものとして捉えるというである。そして、その意味のない言葉を批判的に検討し、自分の言葉で補い、意味のある言説へと仕立て上げてゆくことが他者を歓待するということなのである。
『イマ』の話に戻ろう。この作品は執拗に「無条件の歓待」の不可能性を描き出す。先述したように、「フリークス」はもはや他者ではない。また、他者の現前は暴力の開始でもあることを実証するかのように、主人公から全人類へ、あるいはヒロインから主人公へと暴力が振るわれる。

沙也加「見て忍。私、仇討ちをしたわ」
忍「……」
沙也加「約束を反故にしたことになるわね。/名実ともに危険人物。/掛け値のないあなたの――敵」
――本堂沙也加編「沙也加・反故」――

この点に関して言えば、『CROSS†CHANNEL』の方がはるかに明快であった。言葉の通じない他者に対しても、主人公の太一は懸命にコミュニケーションを取ろうとする。一見すると、「無条件の歓待」が実現されたユートピアであるように見える。それに比べると『イマ』は「条件つきの歓待」でしかないように見える。事実その通りだろう。だが、『CROSS†CHANNEL』の主人公たちもまた、群青学院の外の世界から拒絶されているのではなかったか。
「私には<他者>を殺すことができないという倫理的な不可能性のうちに、<他者>の例外的な現前が刻み込まれている。他者は様々な権力の終わりを告げている」とレヴィナスは言う。他者は傷つきやすいものであるがゆえに、それに向かい合った者の内なる法廷を呼び起こし、「殺すな」という禁止の命令を発するからだ。しかし、現に他者は殺され、あるいは拒絶され、ひとつのモノとして扱われている。「私には他者を殺すことができない」のなら、それが可能であるこの世界はディストピアと言うべきだろう。
我々はこのディストピアのなかで、どのようにして他者と倫理的な関係を持ちうるのだろうか。いくつか検討するべき問題があるように思われる。まずは「私」という概念について、次にデリダが提示した翻訳、より広く言語一般の問題について、そして共同性について。むろん、これらは全て関連している。
(次回で終わったらいいな、という希望的観測で続く)