『最果てのイマ』論(2)―否定としての他者

最果てのイマ

最果てのイマ

(承前)
『イマ』の主要なテーマが(エピローグで主人公自身が語っているように)他者の問題であることは間違いない。だが、そもそも他者とは誰のことなのだろうか。この場合、私ではない誰か、という定義では不十分である。『CROSS†CHANNEL』においても語られているように、それは共依存、抑圧、投射といった関係から区別されなくてはならない。かといって、私と精神的な繋がりを持たないのが他者、というわけでもない。太一や忍がくり返し述べているように、他者との接触だけが私の心を育ててくれる。つまり、他者を所有することはできないが、他者を享受することはできるのである。逆に言えば、私は他者に対して受動的な存在とされている。
他者とは決して所有できないがゆえに、無限の渇き、癒されない渇望として追い求められると言ったのはレヴィナスである。他者をもとめる渇望は「友情」として、たとえば握手のような言葉を用いない動作の中で表されるが、握手は意味のない動作であるがゆえに、表現することのできない無限の渇望を表現するという逆説的な意味を帯びることになる。私と他者の関係は、つねに「それだけではないはずだ」という否定のなかで捉えられる。

忍「こんなものじゃ、ないはずなんだ。/探した、調べた。隅から隅まで。見えた瞬間に。/心や絆は、まだこんなものじゃない。もの凄いシステムなんだよ、これは。何か……何かあるはずなんだ。だって人間なんだから。だって魂なんだから。/絶対にメスを入れてはいけない、人の手が触れてはいけない領域じゃないか。/……沙也加や章二たちに抱く気持ちが、こんな……こんな乾燥したものであるはずがない……」
――本堂沙也加編「デート(仮)〜甘酸っぱい何かのために〜」――

他者は無限であり、正確に捉えることができない。もしそれができたとすれば、その瞬間に他者は他者でなくなってしまう。前回の引用部で沙也加が言ったように、他者を求めることは一個の矛盾であるとしか言いようがない。
レヴィナスは愛撫を食事の比喩で捉え、愛撫とは他者を決して食べつくせない(理解しきれない)ことを知りながら、それでも渇望する切なさがあらわれる行為だと考えた。さまざまなモード(制度)に基づいた衣服は、私とあなたが何物かを共有していることを示している。愛撫はまず衣服を脱がせることから始まる。それは、汲み尽くせない他者を渇望しているから、ではないだろうか。多くの作品が「愛の完成」の象徴としてセックスシーンを描くのに対し、『CROSS†CHANNEL』以降の田中ロミオはむしろ、挫折を予感させるような台詞をその中に折り込もうとする。

接触。密着。人は一つになりたいのか。否である。/他者を感じたいが故に、それを渇望するのである。/誰かと融合したいと考える者はむしろ少数派だ。自己を保持したまま他者を感受する。/表層と下層、二つの領域を持つ人類は……そういう心の機構を構築しなければ、とうてい他者の暗部を認めることはできない。
――塚本葉子編「葉子に触れる−続き」――

なぜ所有できないとわかっていながら、他者を求めるのだろうか。『家族計画』のころからその答えは変わっていない。まだ心が成長していない者同士が協力し、心を養うためである。『イマ』には以下のような文章があった。「宿題を見せあうように、生き抜きたかった」。私はこの文章に「傷のなめ合い」以上の何かを、共同体を構成する原理の転換の可能性を感じているのだが、その話は次回に回そう。そもそも、なぜ心を養うのに他者が必要なのだろうか。ここで、これまでの問いは反転されなくてはならない。他者にとって、自己とは誰なのか。自己を構築するうえで、他者はどのような役割を果たすのだろうか。


自己はどのようにして構築されるのか。フーコーにならって、これを「自己のテクノロジー」の問題と呼んでみよう。

これまでは私はあまりにも支配と権力のテクノロジーに力点を置きすぎたかもしれない。今やますます私の関心は、自己自身と他者との相互作用に、そして、個人における支配のテクノロジーに、いかに個人が自分自身に働きかけるかの歴史に、つまり自己のテクノロジーに向かっている。
――ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』1988年(岩波現代文庫、20頁)――

フーコーが探求しようとしているのは、「自己とは誰か」という問いに対する、唯一の答えではない。正しい自己を構築する唯一のテクノロジーでもない。「自己とは誰か」という問いを発する私自身(主体)が「自己のテクノロジー」によって構築されている以上、絶対に正しい答えを導き出せるような超越的な立場にたつことはできないのである。しかし、「自己のテクノロジー」の分析によって権力の布置が変化すれば主体のあり方を変容させ、変容した主体によって、以前とは異なった形で「自己のテクノロジー」を再生産することは可能だろう。こうして、主体の外部に超越的な立場を導入することなく、自己とその周囲の関係を変えていくことができるのである。
さて、『フーコー』を書いたドゥルーズによると、主体とは、精神とは「さまざまの観念や印象の寄せ集めの一つの性質ではなく、その寄せあつめへの性質づけである」(『経験論と主体性』)。すなわち、自己の内部にある無数の観念や性質の中からひとつ、あるいはいくつかを選び取り、他の観念や性質を選び取らないという過程を通して、自己内部の多元性を一元性へと収斂させていくということである。例えば、私tukinohaは日本人の男性である、と自己画定することができるが、それは「日本人」「男性」という性質を選択し、他の性質を選択しなかったからそうなのである。では、私はなぜそれを選択したのだろうか。いや、そもそも私は選択したのだろうか。
このような問題を考える上で、酒井直樹が「日本人」の戦後責任について論じた以下の文章はきわめて示唆に富んでいる。

例えば、韓国からやってきた年老いた女性から、従軍慰安婦制度について詰問されたとき、私は自分が日本人であり男であることを無視できない。私の国民的、性的同一性は、私に問いかけてくる「あなた」が韓国人であり女性であることと相関して限定されてくる。……なぜなら、私と「あなた」との関係は歴史があるからであり、現在する差別は歴史に根をもっているからだ。
――酒井直樹『日本/映像/米国』2007年、294頁――

唯心論のように私が他者を構成するのではなく、他者が私を構成するのである。私が私であるのは、私が他者との関係のうちにあり、その中で逃れようもなく私であるからである。他者を所有することによって他者性を奪わないかぎり、私は無限としての他者に呼応しつづけなければならない。そして、その呼びかけと反応のなかでのみ、私は私でいることが可能になるのである。
他者が私の目の前に現れることによって、私が構成され、私と他者は倫理的関係を取り結ぶことができる。しかし、『イマ』を論じるうえで重要な点は、レヴィナスに対するデリダの批判にも書かれているように、他者が現れることは、他者に対する私の暴力が開始されるきっかけにもなる、という点ではないだろうか。
先述したようにフーコーの権力論においては、「自己のテクノロジー」は自由に改変しうるものではなく、より広い意味での「支配管理関係」の中で存在している。つまり、他者の現前による自己画定もまた権力から自由ではないのである。スチュアート・ホールらが言うように、現実世界のなかで、人はある特権的な立場に同化し、まさにそのような立場から他者(差異)と自己とを結びつけ、自己画定を行う。それが分節化という言葉の意味である。
CROSS†CHANNEL』と『最果てのイマ』。このよく似た主題を扱う2作品において決定的に異なる点は、権力が問題化されているかどうかである。『イマ』の主人公は他者を渇望しているにも関わらず、彼の有する絶大な権力によって、他者の現前は即座に暴力の契機へと変化してしまう。むろん、それは主人公ひとりにのみ当てはまる特殊な設定のためではあるのだが、他者に対する暴力的な同化と排除が文節化に伴って常に起こっていることを考えると、他者を論じるうえで重要な問題を提起しているように思われる。
では、いかなる方法によって私は特権的な立場を放棄し、他者と出会うことが可能になるのだろうか。そのような問題を、次回こそは『イマ』をちゃんと使って論じてみよう。(その4くらいまで続く)