表現者と知識人

最果てのイマ』論(4)をお待ちの方は申し訳ありません。現在風邪でくたばっています。
代わりといっては何ですが、某所で表題の件について簡単な報告した際のレジュメを転載して、お茶を濁すことにします。重要な部分だけ引用するので前後の文脈が繋がっていない箇所もありますが、悪しからず。


以前、サイードのテクストを扱いながら表現者と知識人のあり方について議論した際には、「アウトサイダー」という、共同体のはざまで宙吊りになりながら大衆に向けて語りかける姿が西洋的知識人の一般的モデルとして承認されていたように思われます。サイードや、あるいはバーバのようなディアスポラ知識人にとって、それは他者と共存するための倫理である、と言えるでしょう。
ただ、このような知識人像を普遍的なものとして受け入れる前に、スピヴァクによる以下の問いを省みることが必要ではないでしょうか。「何の準備もなしにあなたに世界を考えることを可能にしている刻印とは如何なるものだと思いますか?どのようなコード化がこの主体を生産したのでしょうか?」(1) 。この問いを私なりに解釈するなら、我々がアウトサイダーや異種混淆性といった概念について考えることを可能にしている状況について自覚的であるべきではないか、ということになるでしょう。それを欠いたとき、これらの倫理は他者に対する抑圧の論理ともなるのだ、と。ここで問題とされているのは、サイードバーバの主張が正しいかそれとも間違っているかということではなく、彼らのテクストがどこに向けられているかというアドレスの問題であり、また、ナラティブという行為が不可避的にもつ両義性ではないかと思われます。
その意味で、サイードが近代の西洋社会に対する厳しい批判者であると同時に、西洋古典文学の研究者でもあったという事実は、アドレスという問題を考える上できわめて示唆に富んでいると言えるでしょう。大橋洋一氏が的確に要約しているように、サイードの奨める対位法的読解とは古典作家の見ることのできなかった歴史的制約をあげつらいながら読むのではなく、「歴史上の作品が部分的に暫定的に予見し喚起している未だ生きられていない、いまなお形成中の歴史を、まさに過去の作品の可能性の中心を求めて読むこと」(2) でした。丸山真男が『日本政治思想史研究』で行ったように、それは消え去ることのない過去を現在において救済しようとする試みであり、また、ベンヤミンの言う「メシア的な時間」を前提にしたものであると言えます。その時間のなかで、サイードフロイトを読み、我々がサイードを読み、いつでもその可能性を発現させることができるのです。
そのサイードが「わたしが使う言語は、国務省や大統領が、人権やイラク「解放」戦争を唱えるときの言語と同じものであるしかない」 (3)と語る一方、「現在では誰もが、十年前と比べてすらずっと多数の読者に声は届くと考えて――その読者を保持し続ける可能性は、同じ理由できわめて小さいが――書く。それはたんに楽天的な意志の問題ではなく、現代において書くことの根本的な性質である」(4) と述べていることは、やはり注目に値するように思われます。言葉の不自由さ、共約不可能性を自覚しながら、救済の時間を信じて「どこにもいないあなた」に向けて語りかけること。これもまた、時代性・政治性を意識しすぎて偏狭化するのでもなく、かといって公共性を無視してドグマ化するのでもない、表現者のあり方についてのひとつの解答ではないかと思います。
このように表現者が身体性を欠いた超時代的存在であるからこそ、それぞれの読み手は自分自身の抱える過去と共鳴するものを選びとることができるのでしょう。しかし、それによって表現者と読み手の双方にある種の超越意識を喚起するのも事実であると思います。
実際には、山尾三省宮沢賢治にとってそうであるように、他者は絶対的な差異であると同時に、差異のまま私に食い込んでいる。だから私は他者にたいして無関心ではいられないのです。あるいはレヴィナスが言うように、私が身体を有しているというまさにそのことが、具体的な他者との関係のなかで生きざるを得ないという制約を私に課しています。そのことはまた、他者の呼びかけに応え続けるという表現者の責任の観念を呼び起こすでしょう。
では、どのようにして表現者は他者の存在を引き受けていくのか。この問題を考える上で、ルソーの『告白』が社会のアウトサイダーとして大衆に向けて真実を語る近代的知識人の誕生を告げる作品であると同時に、風景描写の美しさによって特徴付けられる作品である という事実(5)は示唆に富んでいるように思われます。柄谷行人は主体形成に関するフーコーの議論を受けて、主体の形成と同時に「私ではないもの」として風景が発見されたと述べていますが 、語れるべき内面の形成が内面からの他者の排除によって行われたということ、このような二分法が成立する以前の「江戸文学の伝統」を柄谷が評価していること(6)などを、改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。


(1)ガヤトリ・スピヴァク「一言で言えば」『批評空間』第2期第3号
(2)大橋洋一「時間の対位法」『現代思想』2003年11月臨時増刊号
(3)エドワード・サイード『人文学と批評の使命』岩波書店、2006年
(4)同上
(5)桑原武夫「解説」J.J.ルソー著『告白』1766年頃(岩波文庫、1965年)
(6)柄谷行人日本近代文学の起源』1980年(岩波現代文庫、2008年)


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