『最果てのイマ』論(4)―トラウマをめぐって

最果てのイマ

最果てのイマ

(承前)
デリダの言うように他者を「歓待」することが、他者を言語の通じない異邦人、狂人とみなすことから出発するのだとすれば、言語を用いて他者とコミュニケーションを行うということの実体について考え直してみる必要があるだろう。そもそも他者を唯一的・単独的な存在として扱うという「歓待」の趣旨からすれば、反復によって意味をもつ言語は、他者の唯一性を表現することができないのではないか。言語は常に「かつて誰かが使ったもの」であり、置き換えを拒むどのような経験であっても、一般的な言語としてのみ語ることができるのではないか。他者と言語についてはこのような問題が考えられるわけだが、まずはそれに対して時間的に先立つ事柄として、言語の「呼びかけ」的側面について考えてみるべきだろう。
CROSS†CHANNEL』の終盤、主人公の太一は単独でラジオ放送用のアンテナを組み上げ、全世界に向けて呼びかけを行う。しかし、その放送が実際に誰かに聞かれたかを確認する手段は存在せず、また、太一は確認できなくても良い、と思っている。何故だろうか。『イマ』を通して、まずはこの問題について考えてみたい。

忍「相手とは話さないとだめなんだ」
沙也加「話してどうしたいの?わかりたいの?」
忍「話せば、わかるというものでもないけど。ただ」
沙也加「……」
忍はフェンスから、格子縞に区切られた空を見上げた。
忍「そこに誰かいるって、わかるから」
――本堂沙也加編「笑顔・2」――

言葉は通じないかもしれないが、それでも他者に対して「呼びかけ」を行うことができる。いや、どのような論述的なナラティブであっても必然的に「私の話を聞け」という「呼びかけ」的性質を持ってしまう、という方が正確だろう。しかし、言葉のやり取りを「意味の伝達」として捉えることに慣れた我々は、この「呼びかけ」的性質を閑却しがちである。『CROSS†CHANNEL』における放送部という舞台設定、『イマ』における時系列シャッフルは、それを強調するための装置として考えるべきではないか。
もう少し深く考えてみよう。「一人では会話も成立しないのだ」と忍は言う。以前書いたように、他者の呼びかけに対する応答としてのみ「私」が構成され、主体となる。つまり、私が誰かから呼びかけられているという条件のもとでのみ、私は言語を使うことができるのだ。このことに不思議はない。しかしここで問題となっているのは、他者に対して「私」が呼びかけを行う場合ではなかったか。他者の呼びかけに先立って、私が呼びかけを行う、というのは、先述した「他者の呼びかけによって『私』が構成される」という命題に対して矛盾しているのではないか。矛盾しているなら、呼びかけのはじまりはどこにあるのだろうか。
おそらく、次のように考える他ないだろう。はじまりは存在しない。私が他者に呼びかけるのであれば、それに先立って、私は他者から呼びかけられているのだ、と。哲学者の熊野純彦レヴィナスに依拠しながら述べているように、「他者との関係であるような、向かい合う時間、<倫理>的であるような時間にあっては、現在であることはつねに・すでに過去であること、過去へと送り戻されることである。しかも、けっして記憶されえない、<私>のなりたちのてまえにある過去、すでに存在しない他者にたいして「借り」が生じてしまっている過去……へと追放されてしまうことなのだ」*1。次のように言い換えることもできるだろう。他者との関係は、つねに「取り返しがつかない」ものだ、と。
話が観念的になりすぎているように思われるので、作品内容に即しながらもう少し考えてみよう。『CROSS†CHANNEL』の終盤、仲間をすべて失いただひとりとなった太一は、自分の内面世界へと潜っていく。そのなかで太一はある少女と出会い、それをきっかけとして、心の平衡を取り戻す。この「内面への没入」「無意識との邂逅」「自我の回復」というパターンは『イマ』(と、それ以前では『家族計画』の一部)でも踏襲されているわけだが、ここで重要な点は、主人公が出会う無意識は主人公自身の過去の記憶によって形成されながら、同時に他者性を備えた人格的存在である、という点だろう。
記憶が他者であるということ、それを典型的に示すのがトラウマ(心的外傷)という現象だが、日常の経験に照らし合わせてもそのように感じることは多いのではないだろうか。私は私自身の記憶をコントロールできない。さらに都合の悪いことに、思い出してしまったことは、既に過ぎ去ってしまった出来事であるがゆえに、いまさらどうすることもできない。この「記憶の他者性」は、私と他者との関係を考える上で重要な柱となるだろう。
私は他者からの呼びかけによって「私」となる。その意味で、アイデンティティは自分自身によって選び取られるものというより、自己に対する他者の責めのようなものであると言えるだろう。そして、『イマ』における他者のモデルとは、自分自身によってコントロールすることのできない記憶であり、無意識である。この場合、重要な点は、記憶とは過ぎ去ったものの痕跡であるがゆえに、記憶の呼びかけに応えたとしても、その応答を受け止める主体が存在するとは限らないということではないだろうか。『イマ』のエピローグで語られる、主人公の「罪に償いはできない。が、責任を取ることはできるのだ。取り続けることでのみ、それは成立する」という一見謎めいた言葉や、この記事の冒頭で提起した『CROSS†CHANNEL』の太一が誰も聞いていない(かもしれない)ラジオ放送を通して呼びかけを行う理由も、「私を規定する他者はすでに存在しないかもしれない」という可能性を念頭において初めて理解することが可能となる。

歴史的責任を負うということは罪を引き受けるということではなく、何よりも、個人としての応答義務を引き受けることであり、応答の発話主体としてそれらの集団への自己確定を行うことなのである。……「応答」には相手によって語り手の発話の表現やメッセージが受理されることは含意されていない。「応答」は「語り掛け」の一種であって、「語り掛け」には伝達の不確実性が前提されている。「応答」には伝達が保証されていないから、「応え」が相手に伝わることも伝わらないこともある。したがって、人は現前しない人に向かって応えようとすることもできるのである。
――酒井直樹「倒錯した国民主義と普遍主義の問題」『現代思想』2006年9月号――

酒井直樹が言うように、応答責任を果たすということは、その応答が相手に受け取られることを含意しているわけではない。呼びかけの不確実性がそこには含まれる。だから、人は現前しない他者に向けて応答することもできる。

(……章二、章二!)
(いつだっておまえが正しかったんだ!)
――戦争編「人類結合」――

上に引用したのは『イマ』の終盤、死んだ親友がかつて発した呼びかけに、ようやく主人公が応えるシーン。人間はその場にいない他者に向かって応答することができる、ということは、逆説的ではあるが、他者と倫理的な関係を持つということのなかには、コミュニケーションの断絶の可能性がつねに・すでに含まれているということでもある。それを他者の両義性、ととりあえず定義しておこう。他者とはトラウマのようなものであり、私のコントロールできない領域からやってくる。それに向き合うことで私は主体化を成し遂げることができるが、しかし、他者は記憶のように脆く、傷つきやすいものである。主人公が親友の問いかけに答えるまで、長い時間がかかったのは何故か?主人公の叫びが、すでに存在しない相手へと向けられたのは何故か?それは、私と他者をめぐる何かが、記憶のように「あやうい」から、ではないだろうか。
これまで述べてきたように、私が私自身になることに先立って、他者は私のなかに入り込んでしまっている。それを私が無視し得ないのであるならば、デリダの言う「歓待」はつねに・すでに達成されているのではないか、と考えることもできるだろう。しかし、私の応答がしばしば対象を見失い、すでに存在しない人に向けられたり、あるいは他者の否定(それは同時に自己喪失でもあるだろう)という形を取ることがあることも事実である。「歓待」はつねに条件つきのものでしかありえない。何故だろうか。
これを主体の「あやうさ」(可傷性)の問題として考えてみよう。人間は自分自身の内部に、記憶や無意識といった他者を含んでいる。それとの対峙が主体を形成する第一歩であるとはいえ、それはクリステヴァの言う「親密なものに内在する見知らぬ存在」としての「不気味」なものであることに変わりはない。『最果てのイマ』という物語が繰り返し描こうとしたものは、仲間たちの身体的な傷つきやすさ、大切な人をも裏切りうるエゴイズム、不安定さを補うために行われる他者への依存、気持ちの移ろいやすさといったものであったが、主人公にとっての問題は、主体が自他の境界において生起するがゆえの、主体の受動性であったと言えるだろう。

忍(なんだ……これ……?)
門倉正道と塚本斎、そして葉子。/ただ三人だけの世界だった。/他に人気はない。
忍(僕が…………いない?)
門倉「斎か」
門倉が語りかけてくる。
忍(……斎の……視点を……見ていた?/なら僕は/どこにいるんだ―――?)
――塚本葉子編「粛清の日」――

漱石が『こころ』の「先生」に「私は自分自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです」と語らせているように、私は私自身をコントロールできない存在であり、私自身の内部や他者との関係に「余白」を抱えざるを得ない。この余白にさえぎられるように、私は他者からの呼びかけに応え損なってしまう。
あるいは以下のように言い換えることもできる。他者からの呼びかけは、さしあたっては感受されるものであり、認識されるものではない。私はまず、感受という自他の境界的な領域において、他者と直接触れ合うのだ。それが私にとってコントロール不能なものであり、それに対して私がつねに遅れてしまっている以上、私にとってそれはトラウマ(心的外傷)のようなものである、と言えるだろう。さらに、感受された他者の呼びかけを認識へと高めていくなかで、それを認識する「私」が立ち上げられていくわけだが、その際には必然的に私自身の内部や他者との間で余白を生み出してしまう(デリダの用語を使えば「代補」)。他者の呼びかけによって主体が生まれるとしても、その主体はつねに・すでに傷つきはじめている。
むろん、傷つきやすいのは私だけではない。同じように他者もまた可傷性へと曝されている。他者の存在に対して私が遅れてしまっていることを考えると、他者の傷はつねに「取り返しがつかないこと」に属しており(その最も顕著な例が死である)、私自身の可傷性よりもいっそう深刻な問題であると言える。
「可傷性」についての考察なしに、我々の共同性について考えることは不可能であるように思われる。我々は傷つきやすく、それゆえに互いの呼びかけを受け取り損なってしまう。しかし、我々が互いに可傷性を抱えているということ、それ自体が我々の最も根源的な共同性であるとも言えるのではないだろうか。互いの可傷性を反省的に捉えなおすことで、新たな絆が生まれるのではないか。最後に、そのような可能性について検討してみたい。
(遺憾ながら次回に続く)

*1:レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』251頁