ポール・ギャリコ『猫語の教科書』

まだほんの子猫のとき、母を亡くすという不幸にあって、私は生後六週間で、この世にたったひとり放りだされてしまいました。でも、そこで悲嘆にくれたわけではありません。だって私は頭もいいし、顔だって悪くないし、気力にあふれ、自信もあったんですもの。それに母は、あの晩悲しい交通事故にあうまえに、たった数週間とはいえ、役に立つことをいろいろ教えておいてくれたのです。
――本書23頁―ー

編集者ポール・ギャリコによって解読された、猫による、猫のための「人間の家を乗っ取る方法」について書かれた教科書。という体裁をとった小説です。当然、夏目漱石我輩は猫である』を連想するところですが、漱石と違って「ああ、猫好きの人が書いたんだなぁ」ということが一読してすぐに伝わってきます。

人間の愛情に対しては用心深くしていなくてはなりません。なぜなら時として、ムチで打たれるより痛い思いをさせられることがあるからです。人間の愛はときには冷めてしまい、猫はとり残されます。そんなこと、猫なら決してしないのに。
―ー本書162頁――

漱石が自分の複雑な生い立ちを、捨てられてまた拾われる、名前のない「我輩」に託したように、ギャリコもまた人間の愛を「猫」に託します。ギャリコが描く「猫」は、自分が快適に生活するために飼い主を篭絡するずる賢い生き物ですが、猫の欲求と、飼い主が与えたいと願うものとは決してすれ違わない。「猫が家を乗っ取ってくれていっしょに暮らしてくれるなんて、人間はなんて運がいいんでしょう」。たしかにその通りで、まるでファシズムの独裁者とそのアジテーションに感動する大衆のようですが、「猫」とその飼い主の気持ちは結果的にぴったりと一致している。この隙間のなさ、あるいは都合のよさというのが『我輩は〜』と『猫語』の違いなのかなぁ、と。『我輩は〜』の方は、その隙間の存在によってある種の普遍性を獲得していますが、『猫語』は猫と飼い主の世界が完全に閉じていることで、人は選びますが、一度中に入ってしまえば没入感が得られます。

奇妙な倒置法によって、猫がご主人を椅子から追い払ったという事実は、ご主人が立派だということにおきかわります。なぜなら彼の猫は、ご近所のどの猫よりもかしこい、それはつまり飼い主がすぐれているという事実の反映にほかならない……。まあ、いいわ。そう思わせてあげましょうよ。そうこうするうちに猫は自分の椅子を手に入れちゃったんですもん。
――本書69頁――

こういった文明批評が本書の持ち味なのですが、反面、猫の世界についてはほとんど触れられません。冒頭で、その猫に人間が与えた「ツィツァ」という名前が明かされているのも、猫が基本的には人間世界に属するものだからなのでしょう。ただ、その名前が本当にツィツァであるという「決定的な証拠はとうとう出ずじまいだった」という曖昧さもまた重要だと思います。本書第11章「母になるということ」で描かれる、猫は他の猫と恋をし、人間の家で子猫を生むという過程はまさにその曖昧さの産物であると言えるでしょう。
あと、個人的に面白かったというか「みんなそうなんだなぁ」と思ったのが以下。

作家がタイプの前に座ったら、とたんにひざによじのぼって遊び始めます。……作家にとってはタイプの前に座ったその瞬間がいちばん弱みのあるときで、この時が仕事をやめさせる絶好のチャンスなの。
――本書181頁――

猫語の教科書 (ちくま文庫)

猫語の教科書 (ちくま文庫)