至高性sovereignty・主権severeignty・マルチチュード
バタイユは未完の著作『至高性』において、至高性の体験を現在におけるエネルギーの無限定な消費と定義し、ヨーロッパではフランス革命の辞典まで、王の至高性に同一化することで間接的に民衆も至高性を体験していたと述べる。ここでは至高性と主権が限りなく接近しているが、バタイユは両者を切り離そうとする。「至高性は何ものでもない」(1)
ナンシーはバタイユの考えを、「分有」概念を導入することでさらに推し進めようと試みる。
つまり彼〔バタイユ〕が断念したのは、共同体を思考すること、そして共同体の分有を、そして分有のうちにある至高性sovereignty、あるいは分有された至高性、またいくつかの現存在の間で、主体ではない特異な実存たちの間で分有された至高性を思考することである。……その場はおのれの脱‐臼[位置取りを外すこと]dis-locationを通して規定され露呈されている。したがって、分有のコミュニケーションとは、この脱‐臼そのもののことであるだろう。(2)
このような「共同体の分有」は、例えば「国家主権」に対して「帝国」と「マルチチュード」を対置したネグリ&ハートの考えと同一視できるのだろうか?
確かに、アガンベンも「潜勢力」potentialityに対応した政治主体として、多数者multitudeを挙げている(3)
つまりその政治は、単に絶対的に人間の理性の働きを出発点として規定されるのではなく、自らが存在しないという可能性、自体的無為の可能性を露呈し、そのような可能性をそれ自体の内に含んでいるような働きを出発点として規定されている。……その政治とは、あらゆる個々の共同体を超過し、その超過に対応する統制的根拠としての君主制や帝国といった共同体をも超過する政治である。自体的な本質的無為の自覚から、思考はこれ以外にどのような帰結を抽き出すことができるだろうか? (4)
とはいえ、ナンシーやアガンベンにおいては、人々がその有限性において「結び付けられると同時に切り離される」」という共同体の非完結性が強調されている点において、脱領土的なマルチチュードが新たな秩序を作り出す際の「構成的権力」は主権という枠組みから自由になりうるというネグリの楽観性とは対立するところがあるように思われる。ある秩序を作り出す潜勢力(〜しないでいること)は、その秩序が形成されたあとにも消えることはない。「構成された権力において構成する権力が保存される」のである(5)。
註
(1)ナンシー『無為の共同体』34頁。
(2)同上、45−46頁。
(3)ジョルジョ・アガンベン「人間の働き」2005年(『思考の潜勢力』、438−439頁)
(4)同上、58−459頁
(5)アガンベン「思考の潜勢力」350頁。発想の元になっているのは、もちろんベンヤミン『暴力批判論』である。
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