『ef』論のためのノート:マルチシナリオのトラウマを越えるために

ef - a fairy tale of the two.PS2移植版の発売日が決定したことを記念しての、久々の『ef』論です。ちなみにこのブログでは原作上巻、アニメ第1期、原作下巻、アニメ第2期とこれまでにもくり返し『ef』について書いてきましたが、はっきり『ef』について書いたもの以外でも、それを意識しながら書いていることが多い……というか、このブログで書いていることは全て『ef』を論じるための予備作業だと思っていただいて結構です。
柄谷行人が「マルクスを読むように、わたしは漱石を読んできた」と語っているように、あるひとりの作家、あるひとつの作品が私たちの思考をどこまでも遠くへ導いてくれる、そういうこともあるでしょう。僕にとって『ef』はそういう作品であり、そしてこれからも、僕は『ef』を読むことを通して自分の思考を形にしていくのだろうと思います。この記事は未完であり「ノート」でしかありませんが、また別の機会に別の関心を『ef』にぶつけ、新しいノートを作っていく、それを可能にする懐の深さをこの作品に感じています。

さて、この記事の副題に「マルチシナリオのトラウマ」とありますが、これは具体的にどういう意味なのかということから話を始めてみたいと思います。最初に答えを言ってしまうと、それはスピヴァクアメリカの学生にむけて「あなたに何の準備もなしに世界を考えることを可能にしている刻印とは如何なるものだと考えますか?」と問いかけるときの「刻印」とほぼ同じものです。マルチシナリオという複数の物語を読み進め、ひとつの作品として論じることを可能とする、無意識の刻印とは何か。
作品の具体的な叙述を見ていきましょう。『ef』第3章のヒロイン・新藤千尋は記憶障害を抱えており、主人公である麻生蓮冶と出会い、恋をしたことさえも最終的には忘れてしまいます。ふたりは後に再開し、蓮治はもういちど最初からやり直そうとするのですが、千尋は彼を不幸にすることを恐れ、彼と出会わなかった可能性を想像します。

「たぶんなにかが違ったら――むしろ、そのほうが良かっただろうなという、可能性があったんだなって」
……そこでわたしは、あり得ないと思いつつ、気づいてしまった。
千尋先輩……もしかして蓮治とのこと……」
「はい。覚えています」
――『ef』第4章:新藤千尋羽山ミズキ――

正確には「覚えている」のではなく、過去の記録を読むことでそれを「知った」というべきでしょう。それはともかく、第4章のヒロインである羽山ミズキが賢明にも「気づいてしまった」ように、ここで千尋に「可能性としての現在」を想像することを可能としたのは、彼女と蓮治との間に現在とは異なる関係がかつてあった、という失われた過去の存在であると言えます。千尋と蓮治がかつて恋人同士だったという過去があり、それが現在とは異質な過去として、今の千尋からは切り離されてしまっている。だからこそ、千尋はそれを「ひとつの可能性」とすることで、今を相対化しようとするのです。

そう……覚えていたのに、千尋先輩は蓮治に気のない演技をしていたのだ。
――『ef』第4章:羽山ミズキ――

思えば、蓮治もまた過去を抑圧することによって「可能性としての現在」を想像する力を手に入れたのでした。千尋と出会ってからこれまでの記録が書かれた日記帳、蓮治はそれをポケットの奥に押し込みながら、「明日は今日より、いい日かもしれない」と考える。それは過去を可能性のひとつとして封じこめ、過去から自由な現在を手に入れようとする試みであると言えるでしょう。
しかし、結果から言うならば、それは上手くいきませんでした。先述したように千尋は過去を現在から切り離しながら、同時にその過去に囚われてしまっている。だからこそ「千尋先輩は蓮治に気のない演技をしていた」のです。

「ずっと考えてるけど、答えがでません」
もぞもぞと千尋先輩が動く。
「……いえ、答えは出てるんです。何度も何度も」
「ダメですか?」
「私では蓮治くんを幸せにはできません」
半年前と同じ言葉。/これを蓮治は聞いたのか。/悲しいと……わたしが想うのはいけないだろうか……。
――『ef』第4章:新藤千尋羽山ミズキ――

過去から逃避することで、かえって過去に憑りつかれてしまう。やや手垢のついた言い方で表現するならば、トラウマを抱えてしまうわけです。忘却も都合よくは働かず、忘れようとした過去によって未来を失ってしまう。この『ef』という作品が、keyのマルチシナリオ作品である『Kanon』に対する問題意識――主人公と結ばれなかったヒロインはどうなってしまうのだろう――から出発していることを、ここで改めて確認しておきたいと想います。
記憶障害を抱えた新藤千尋が過去に囚われるということ、それは忘却の難しさを端的に表しているように思われます。過去を失うことと、忘れることの違い。それが明確に現れるのは、彼女が蓮治の母親と喫茶店に行き、「初恋の人」について語るシーンです。

どうしよう……。/でも……もう終わったことだし。/蓮治くんのお母さんは知りえない人だからいいかなと。/なんだか。/これで区切りがつくかも知れないと思った。
「……私の初恋の相手は、近所のお兄さんでした」
「ほうほう」
「絵が上手くて……いつも姉と一緒に遊んでいるのを、私は遠くから見ていただけなんですが。/それで終わってしまって……本当に……ただそれだけのことで……」
そこで自分でも驚く発見をした。/あの人の顔をうまく思い出せない。/なんだかすべてがおぼろげで……ああ、記憶はこういう風に消えていくものなのだと……。/忘れられる怖さを思い出してしまう……。
――『ef』第3章:新藤千尋・麻生すみれ――

これよりも前のシーンで、千尋が飼っていたペットの死んだときの経験について「うさぎが死んでしまったことが悲しいのではなく……日記を読み返しても悲しくなくて……わからないんです……」と語っていることと見事な対象を表しているように思われます。ある対象を失う場合、それの対象とかかわっていた自分さえも失ってしまえば、悲しむこともない。しかし、千尋はそうすることで逆に「悲しむことのできない自分」に囚われてしまっている。だからこそ、過去と向き合わなくてはならないのでしょう。
ここで千尋が「忘れられる怖さ思い出して」しまったように、過去と向き合ったからといって全てが解決されるわけではありません。しかし、エルネスト・ルナンが「記憶するために忘却する」と述べたように、未来への続く時間のなかに過去を置き換えることで過去の意味づけを変化させ、忘却さえも引き起こすのです。これが「悲哀の仕事」「喪の行為」ということの意味です。それは一度で済むことではなく、くり返し過去の意味を変えながら、現在を生きていくことになります。

直子の死が僕に教えてくれたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。
――村上春樹ノルウェイの森』――

村上春樹もまた「何かが失われたことを受けとめ、悲しむことの困難さ」をくり返し描こうとします。『ノルウェイの森』がその典型ですが、『羊をめぐる冒険』に描かれた長大な冒険も結局は、小説の冒頭で妻と別れたことを小説の最後で悲しむための準備であったと言えるでしょう。
では、どのようにして「悲哀の仕事」を達成するのか。村上春樹が「旅」や「他者の介入」によってそれを行ったのと同じように、麻生蓮治は千尋との過去を小説にまとめ、こう語ります。

「あの小説を読んで、半年前、雪のように消えてしまった千尋を、今の千尋が幸せにしてやりたいって――そう思ってくれるといいな」
――『ef』第4章:麻生蓮治――

それは終わってしまった過去のなかに「現在の千尋」という他者を迎え入れることで、過去の位置づけそのものを変えてしまおうとする試みであると言えるでしょう。蓮治は小説という表現行為によってそれを手助けしようとします。それは田中ロミオが『CROSS†CHANNEL』で描いた表現行為のあり方とも似ていて、ラジオや小説といった身体性を欠いた表現であるからこそ、それぞれの読み手は自分自身の抱える過去と共鳴するものを選びとり、明日へと向かう時間のなかに過去を置き換える方法を学びとっていくわけです。
CROSS†CHANNEL』という作品は、中盤までがマルチシナリオで終盤が一本道という変則的な構成となっていますが、そのなかで企図されていたのは、多くの物語が「忘れてしまったことさえも忘れられてしまった」ことを明らかとし、その痛みを主人公が、そしてプレイヤが引き受けざるを得ないような状況をつくり上げることにあったと言えるでしょう。それに対して『ef』は完全な一本道ですが、これまでに述べてきた過去との向きあい方という点から見ると、実は『CROSS†CHANNEL』とよく似ているように思われます。
ところで最終的に単一のエンディングへと収束していく『ef』や『CROSS†CHANNEL』とは異なる、マルチシナリオを採用する作品のなかには、グランドエンディングという形で全体の総括をおこなうものが少なからず存在します。『ef』の監督である御影氏が以前シナリオを書いた『D.C.〜ダ・カーポ〜』もそのひとつですが、マルチシナリオのどれもが実際に存在したのだと暗に示しながら、グランドエンディングという時点からその位置づけを行おうとするこの形式は、「悲哀の仕事」というよりはむしろ、何も失われていないのだ、ということを強調しているように思われます。
アニメ版『D.C.〜ダ・カーポ〜』もそれについては同様で、最終回の「人生はゲームみたいにリセットできないというけれど、本当にそうだろうか。躓いてもまた、ダ・カーポのように最初からやり直せばいい。俺はそう信じたい。それは、決してゼロからの出発ではないはずだから」という台詞に象徴されるように、物語は恋愛の三角関係の帰結として生じるさまざまな喪失を否認する方向へと進んでいく。このように喪失を否認せざるをえない必然性がないわけではないのですが、実際にいろいろなものが失われている以上、やはり「喪失」という事実を軽視している、と言えるでしょう。
おそらく『ef』の凄さというのはこの辺にあるのではないか、と思うわけですが、もちろんそれが『ef』だけの特色だと言いたいではありません。例えば丸戸史明が『パルフェ』のなかで、「楽しい日常生活」を描く一方、日常の喪失を乗り越える過程で次のような台詞を言わせていることは注目に値するでしょう。

「二人で両手を取りあって、狭い世界を作ったりしない。片手は、みんなと、外と、繋がろうって、思う」
――『パルフェ』杉澤恵麻編:杉澤恵麻――

失われた過去を切り捨て、自閉するのではなく、その中に他者を迎え入れることで過去を乗り越えていくこと。レヴィナスが言うように、他者は絶対的な差異であると同時に差異のまま私に食い込んでいるのだとしたら、他者に対して無関心でいることは不可能で、どのように向き合うか問われています。また、他者と向き合うなかで「喪失」を乗り越える勇気もまた生まれてくるのだろうと思います。それはもちろん、他者に自らを曝す不快と表裏一体のものであり、その中で自己を解体される「一寸先は闇」という不安を伴うものですが。

今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。
……それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。
――村上春樹風の歌を聴け』――