アニメへの「翻訳」という考え方

http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20090804/p1
原作至上主義とアニメ至上主義はどちらが正しいのか?という話。
少し前からtwitterで「翻訳」という概念について考えているのですが、それが間接的にこの問題への答えにもなっているような気がするので、ちょっと転載してみます。

ベンヤミンの『翻訳者の使命』も読まずに原作付きアニメの脚本を論じるとか・・・という某氏の発言にgkbrだったので、ええまあ、読みましたよ。硬質な文体と「純粋言語」なる秘境的・メシア主義的概念に困惑。
全部理解できたとはとても言えないのだけど、大枠はつかめたと思う。つまり「純粋言語のために翻訳者は母国語の腐った垣根を取り払う。ルター、フォス、ヘルダーリンゲオルゲはドイツ語の境界線を拡大したのである。」とか「翻訳者たるもの、懸け離れた言語から翻訳する場合には殊に、言語の究極的な要素、語・形・形象・音が一つになっている要素そのものにまで遡及していかねばならない。さらに翻訳者は自らの言語を異邦の言語によって拡大し深化させなければならない」ということらしい。翻訳者はA言語からB言語に意味を忠実に写すだけの(それは不可能なんだけど)職人ではなくて、異なる言語をつき合わせて純粋言語を生み出そうとする創作者なのだ、と。
確かに翻訳や異なるメディアへの移植において、特に優れたものは移植先の言語体系(映像なら映像文法)を替えてしまうようなものがある。ある時期の京アニやシャフトにもそれがあった、と思う。今はそうでもないけど。

ベンヤミン以外では酒井直樹の『日本思想という問題』も重要だと思います。難解な本なので無理に読めとは言いませんが……。

かなめも』のアニメを見ると、ちょっと観たくらいでは原作が4コマ漫画だとわからないくらい自然な映像になっている、と思う。ただ、それゆえにつまらない、というのが私の評価。同じ4コマ原作では『GA』の方を評価するかな。
アニメだからアニメらしく、というのもひとつの考え方なんだけど、でも「翻訳translate」するということは、媒体Aを媒体Bに置き換えることではなくて、むしろ決して媒体Bには置き換えられない過剰性をバネにして媒体Cを生み出すことではないか、と思う。
今もtranslateのスペルが思い出せなくて(中学生か)辞書を引いたのだけど、ああ英語ではこういう意味もあるのか、と気づいたりする。それで、日本語として使うときも英語のニュアンスを加えてみようか、と思うようになり、自分にとっての日本語が少し変化するわけだ。

原作つきアニメを一種の翻訳であると考えるなら、現在の原作/アニメの境界線を自明視しているという点で「原作至上主義」も「アニメ至上主義」も同じである、と言えるのではないでしょうか。
僕が(基本的には)京アニ作品よりもシャフト作品の方に色々な可能性を感じているのも、同じ理由。最近の『化物語』も独立した作品としての完成度より、小説からの翻訳作品としての完成度の方に注目したいと思います。