桐原いづみ『ひとひら』

偉人や文学者でもない普通の人間に紡ぎ出すことの出来る、普通の言葉。その中でもっとも価値がある言葉は、一度言葉を失ったあとに「それでも」言おうとした結果として出てくる言葉ではないか、と僕は思っています。
「筆舌に尽しがたい」「言語に絶する」「とても言葉では言い表せない」といった言葉がレトリックとしてではなく、本気で使われるとき、多くの宗教がそうであるように、僕たちは沈黙によって対象への敬意を表そうとします。しかし、「それでも」言葉にしようとするとき、対象と自分との絶対的な隔たりを知りながら「それでも」近づこうとするとき、そこに初めて自分の言葉が生まれてくるのではないでしょうか。
悲惨な境遇にいる人を見つけ、それを眺め、同情する。自分とよく似た、けれども少し前を歩く他人を見つけ、同じにはなれないことに苛立つ。物語の機能とはまず、このような同一化の欲望をかきたてることにあります。それに対して読者は「沈黙」によって答え、傍観者である自分自身を消し去り、物語と自分との「隔たり」を消し去ろうとする。けれども、物語の中の人間が意志をもって語り出したとき、あるいは物語の必然性やテーマ性に還元されない「出来事それ自体」が語りだすようなとき、物語と読者のあいだにある「隔たり」こそがその両者を結びつけるような、新たな関係性が生まれます。「隔たりin-between」は他者を切り離すと同時に結びつける。同質性による結びつきではなく、差異による結びつき。そのような関係性が、確かに存在します。
「言葉を失うこと」と「沈黙すること」はイコールではなく、前者が「他者」の存在に対する驚きであるとすれば、後者はそれを沈黙の中に溶かし、飼いならしてしまうことである、と言えるでしょう。
物語の中で圧倒的な存在感をもって描かれた「苦しみ」や「葛藤」を伴う出来事は、その存在感のゆえに「出来事それ自体」が語り出す。その自立性・他者性のゆえに、僕はその物語を自分自身のものにすることが出来ず、一度はそれを語るための言葉を失ってしまう。しかし、だからこそ僕は、傍観者でしかない自分自身の「痛み」を感じながら物語の「痛み」を受けとめ、自分自身の言葉で再び語りだすことが可能となるのです。登場人物になりきるのではなく、他者として「痛み」を想像すること。
「隔たり」を介した読書とは、ただ単に物語を受容することではなく、むしろ物語の中に自分自身の痕跡を刻むことであると言えるのではないでしょうか。優れた物語を読むことの価値はそこにある、と僕は思います。

ひとひら 7 (アクションコミックス)

ひとひら 7 (アクションコミックス)

と、だいたいこんなことを『ひとひら』最終巻を読んだ感想の序文に使おうと思ったのですが、いつものように演出を含めた内容について云々、というのは蛇足ではないか、という気がします。この物語が面白いかつまらないかは、少なくとも僕にとっては問題にならないわけです。
「あとがき」で作者は以下のようなことを書いています。

この連載を始めたころ、周りの方から「自分も麦みたいに人前とか全然駄目なんです」ってよく言われました。でもそう言われても、全然そんな風に見えない方が多かった。

ここで「私も私も」と言いたくなる気持ち、僕には理解できるような気がします。主人公の麻井麦のような経験をしてきたわけではない。麦の気持ちがわかるわけでもない。ただ、ちょうど他者を前に立ち止まっていた麦が、他者に対する違和感を持ち続けながら、自分を含む問題として他者について考える力を手に入れたように、僕は僕自身の痛みを通して麦の痛みを理解しようとした。それはおそらく、僕自身の痛みが何なのかを知る過程でもあったのでしょう。
だから、僕はこの物語に対して「面白かった」とか「つまらなかった」とか、自分の外にある対象を評するようなやり方で評価を下そうとは思いません。
ただ「ありがとう」と言いたい。それくらい、僕にとって大切な物語です。