そろそろ新しい記事を書きたいところですが、『パルフェ』を進めるのに忙しいので(他にやることないんかい)、今回はtwitterからの転載でお茶を濁しておきます。


・家族とお盆休みを過ごしただけなのに、twitterを眺めていると自分だけのけものにされているかのような気分になってくる。オフ会?なにそれ、「はじめてのお使い」と何か関係あるの?みたいな今日この頃。実家にいる間は、ずっと『三国志11』をやってた。劉備三兄弟を操作してワールドカップ制覇を目指すゲーム……ではない。


・『サマーウォーズ』観てきた。みんなあれを「デジモンの焼き直し」としか見ていないようだが、全然違うよ!と言いたい。あれは萌えアニメです。谷村美月ボイスの男の子に萌える映画。何かに開眼しそうになった。主人公とヒロインがあまり目立たないくらい、カズマ君が良かった。
それから、『ヱヴァ破』の感想で「食事について何か書けそう」と言ったけど、これはむしろ『サマーウォーズ』の方がふさわしい。際限なくネットワーク上のデータを食べる敵と、適度に食べる主人公たちの対比。主人公たちは自分の欲望によって食べるけれども、敵は他者の欲望によって食べるので、食べ過ぎるか食べなさ過ぎるか、になってしまう。この辺はid:ashizu氏の『孤独のグルメ』論が参考になる。『孤独のグルメ』の舞台は都会だが、主人公は見知らぬ他人に振り回され、他人の食欲に刺激されて食事を取る。『サマーウォーズ』における仮想空間を一種の都会だと考えるなら、やはり都会/田舎という二項対立がこの映画でも踏襲されているように思う。


・「エンドレスエイト」について。「エンドレスエイトはつまらない」と言うのは勝手だけど、それが矛先を変えて「理屈を捏ねてエンドレスエイトを肯定する評論家がうざい」と言われると、少し反論したくなる。なんで「よく考えると面白い」ものが「直感的に面白い」ものより下だと決め付けるかなぁ。直感だけが信じられる、というのは自由でラディカルな態度のようにも思われるけど、常に変化し続け、分裂する「自分」の多様性を収束させ、「今このときの自分」を特権化する、極めて本質主義的な考え方だと思う。
しかし、このように「自分」という存在を固定化させようとする傾向は、近代化の進行がもたらした当然の帰結であるとも言えるだろう。近代化の過程において、政治、経済、生活の最小単位は村から家庭へ、家庭から個人へと縮小していった。そして次は個人の中の多面性が自覚されるようになるのが自然な流れなのだが、実際には個人がそれ以上変化することも分割することも出来ないアトムとして観念されるようになった、と思う。「自分さがし」とか、少し前の「前世ブーム」みたいなものも、個人の人格が現在から死後まで一貫して保たれると観念されているからこそ可能になるのである。


・エロゲはクリックすることで作品世界とのシンクロが云々という話は、明らかに根拠がないのだけど、それを批判するよりは、そのような話が生まれてきたコンテクストを明らかにするほうが有益ではないかと思う。たとえばこんな仮説を立ててみよう。もともと安く作れることだけが長所のメディアとして生まれたエロゲが、ある時期において意外にもオタク文化の中で高い地位を占めるようになった結果、その成功を必然化するために出てきた言説なのではないか。それは、アニメでも一般ゲームでもなく、敷居の高いエロゲをやってる俺すげーという人々にとってもそれは受けいれやすい言説であったため、現在ではそれが内面化され、クリックするたびに快感を感じるパブロフの犬になってしまいました、と。露悪的に言えばそんなところじゃないかなぁ。


・自分で書いておいて何だけど、新海誠の「現実そっくり」な映像が、実写映像や現実そのものとは区別される独自な価値を持っているということは、「翻訳」の問題として考えるべきである、というのは結構いい線いってる気がする。現実/アニメの境界は、両者が互いに翻訳されるときに初めて線が引かれる。