福家崇洋『戦間期日本の社会思想―超国家へのフロンティア』

戦間期日本の社会思想―「超国家」へのフロンティア

戦間期日本の社会思想―「超国家」へのフロンティア

第一次世界大戦終結満州事変ごろまでを対象に、(高畠素之は例外として)社会運動の専門家以外誰も名前を知らないようなマイナー運動家たちの思想を深く掘り下げていく、というのが本書の大まかな内容。この時期の社会思想に対しては、例えば丸山真男による「最終的にはファシズムに対して沈黙するか迎合するかしてしまう無力な思想だ」という批判が一定の影響力を有しているわけですが、それに対して著者は「いや、それは結果論であって、彼らの思想には国家主義を超えていくような可能性もあったのだ」と反論しようとするわけです。
国家社会主義者の思想から国家主義を克服する可能性を見出そうとする著者の試みですが、まあ、そんなに無理な読み方ではないと思います。明治中後期までの思想家(つまり明治初期までに教育を受けた人々)が総じて上流階級の出身で国家主義にも親和性を有していたのに対して、経済成長により中産階級まで学問・思想の担い手が拡大した大正期では国家主義にも批判的な見方が主流になる。かといって下層階級にシンパシーを感じるわけでもない彼らが、国家主義とも、社会主義とも異なる(著者の言い方を借りれば)「超国家」主義者になるのも、当然といえば当然の話。
国家の至上性も社会の独立性(つまり市民社会)も否定する彼らは、国家と社会がぴったり一致するような世の中(つまり国民国家)を構想するわけですが、ただ、それを単純に「国家を超える思想」として褒めていいのだろうか、とも思います。公園のホームレスを追い出す理屈として「公共の福祉」が持ち出されるように、彼らは国家とも社会とも異なりながら同時にその両者を覆いつくす、曖昧な第三の権力を呼び出そうとしたと考えるべきではないか、と。
近年の「公共性」論者は国家と社会を二項対立的に捉えることに対して批判的な態度をとりますが、その結果として呼び出される「公共の福祉」は、もしかしたら国家主義よりも社会主義よりも逆らいがたいものなのではないか。著者が「超国家」という言葉で何を言おうとしているのか、実はよくわからないのですが、そういう方向に行きそうな危うさを感じました。