名古屋駅でチャウチャウ犬を散歩させる情景を想像すると、興奮して鼻血が出そうになる。「ちゃうちゃうちゃう?」「ちゃうちゃう!」「ちゃちゃうちゃうちゃうちゃうん?」(以下延々と続く)。


・記憶喪失ネタというのは、物語を動かす謎、記憶が失われたり戻ったりすることによる関係性の変化、同じ理由による人格の変化、という3要素をひとつのネタにつめ込むことが出来るという点で大変便利。これが三一致の法則というやつです(嘘)。ただ、それらはあくまでも「記憶が戻ったら」の話であって、戻らない記憶喪失や、失われ続ける記憶障害はむしろその三要素を排除し続けることになる。症例として珍しいという理由もあるけれど、記憶喪失に比して記憶障害が描かれづらいのは、そんな理由ではないかと思う。「50回目のファーストキス」「メメント」「博士」あと何かあったかな?


・競馬中継で「テイエムプリキュア」という馬の名前が出てくるたびに、びくっと反応してしまう。


ベンヤミンの『翻訳者の使命』も読まずに原作付きアニメの脚本を論じるとか・・・という某氏の発言にgkbrだったので、ええまあ、読みましたよ。硬質な文体と「純粋言語」なる秘境的・メシア主義的概念に困惑。
全部理解できたとはとても言えないのだけど、大枠はつかめたと思う。つまり「純粋言語のために翻訳者は母国語の腐った垣根を取り払う。ルター、フォス、ヘルダーリンゲオルゲはドイツ語の境界線を拡大したのである。」とか「翻訳者たるもの、懸け離れた言語から翻訳する場合には殊に、言語の究極的な要素、語・形・形象・音が一つになっている要素そのものにまで遡及していかねばならない。さらに翻訳者は自らの言語を異邦の言語によって拡大し深化させなければならない」ということらしい。翻訳者はA言語からB言語に意味を忠実に写すだけの(それは不可能なんだけど)職人ではなくて、異なる言語をつき合わせて純粋言語を生み出そうとする創作者なのだ、と。
確かに翻訳や異なるメディアへの移植において、特に優れたものは移植先の言語体系(映像なら映像文法)を替えてしまうようなものがある。ある時期の京アニやシャフトにもそれがあった、と思う。今はそうでもないけど。


・放置していた『群青の空を越えて』を、ちょっとずつ進めている。実に好感の持てる主人公だ。特にエロいシーンで。中二病のくせにベッドの上ではドン・ファン、というその他エロゲ主人公どもにも見習って欲しいものだ!と思った。
・というかHシーンは涙なしには見られない。


・『ef- the latter tale.』についても記事を書くか、あるいは前の記事を書き直したいと思っているので、色々考えているところ。
思いつき程度の考えだけど、『ハチクロ』の花本先生がそうであったように、火村は犀川先生がモデルかもね。でもまあ、久瀬にもそんな感じがするし、御影氏の考える「大人」の具体的な形が森であり、犀川先生なのだろう、と思う。
とはいえ、森のコピーにすぎないというわけではない。御影なりの読み替えというものが存在している。矛盾を矛盾のまま放置する森と、矛盾を認めた上で、好きなほうを選びなさいという御影。ミズキと蓮治の話は、結局同じことを語っている。中庸を求めず、根拠を求めず、自分の意思で選択する。常にその選択が変化する可能性は残されるが、蓮治がいうように、そのときは「また書くしかないよね」。千尋の物語が「神」についての話で、蓮治はそれを否定して「これが正解だ!」とやるのは、示唆に富んでいる。
個人的には『ef』の凄さは、「正しい答えが存在しない」という絶望をひっくり返して、それは希望なんだと断言したところにあると思う。正しさがないことが希望。


・未だかつて作画MADの間違いが指摘される現場に遭遇したことがないので、作画オタクと呼ばれる人々の鑑識眼をあまり信用していない。「ここは〜の作画だ!」「そうか!」みたいな伝統芸能なのだろう、という疑いを捨てられない。


考証学についての自分用メモ。中公文庫『世界の歴史(12)』から。
「戴震によれば、「理」の意味は本来次のようなものだ。理とは、よく観察して細かいところも弁別するということを指す。物質において「肌理」とか「文理」というのがそれだ。うまく分けられれば秩序立って乱れないので「条理」ともいう。理とは、情にはずれていないということである。(中略)ここでいう「情」とは、人々の微妙な心情やものごとの細かい事情を指すものであろう。「理」とはそうした現実の複雑で微妙なあり方と切り離されて独立の実在物のように存在するのではなく、そうした現実の細かい弁別そのもののことなのである。(中略)「情」の繊細さを押しつぶす「理」の強引さに反抗し、「事実求是(事実にもとづいて正しさを追求する)を提唱する考証学の一側面が、当時の小説に見られる細部のリアリティへの関心や人の心の柔らかさへの嗜好と一脈通ずるものがあるのではないか、ということを指摘するに留めたい。」


・「お前の貧乏はお前の努力が足りないせいだ」という物言いが幅を利かせるのは、中間層の肥大化によって階級概念が失われたことも影響しているのか。この手の物言いには長い長い伝統があるとして、それが言われていた時代ごとに「そもそもマクロな視点が存在しない」⇒「マルクス主義へのカウンタ」⇒「総中流社会」と、時代ごとにそれが言われるための異なる背景が存在していたように思える。
大きな物語」の後退によって悪の個人化が起こり、悪を理解することの重要性が薄れ、悪を取り除きリスクを軽減することが重要視されるようになった。かつてはリスク軽減の主体となった中間共同体はすでに衰退しているので、一方では自己責任、一方では国家の保護によってそれを行おうとする。自己責任と国家の保護が、いわば2つの車輪として機能する。旧来の個人vs国家という概念は後退せざるをえない。
明治から戦前までの勤倹貯蓄論においては、節約による家産の増大と、それを地域社会に投資することによる社会発展が緊密に結びついていた。これが近代と現代の違い、というのはやや乱暴な議論か。