「自分語り」あるいは「自己との対話」について

自分は、直接自分自身に向けて語りかけることは出来ない。過去の偉大な指導者や思想家は「神」や「歴史」という具体的な他者への語りかけを通して自らの内面と対話し、それを表現したが、現在では「他者性なき他者」への語りかけを通して自己と対話するのが一般的だと言えるだろう。
例えば、民衆宗教の開祖の多くが「神との対話」を通して自らの内面を引き出す方法を身につけたように、ニコニコ動画では「まず返事は返ってこない」ことを知りつつ、誰かに向けて語りかけることで自分自身の内面を知り、それを表現しようとする。戦後まもなく流行した「自分史」や「生活綴り方運動」においては、ただ漫然と自分のことを書くのではなく、国や地域、歴史との関連を意識しながら自分史を書け、という指導が行われた。これは単に「自分史」運動がナショナリスティックな傾向をもっているというだけではなく、「国」や「歴史」といったフィルターを通さずに直接「自分自身」と対話することは不可能であるという認識に基づいているためではないだろうか。
「国」や「歴史」という具体的な他者ではなく、ニコニコ動画のコメント群やブログの「無言の閲覧者」に向けて語りかける場合においては、その不可能性は認識されづらい。しかし、たとえ無言ではあっても「誰かが読んでいるに違いない」という他者の存在に対する期待がない限り、「自分語り」は困難だろう。twitterでそうしているように、「帰宅なう」とか「夕食なう」と言った自分語り(あるいは自己との対話)を、プライベートな日記帳に書くことが出来るだろうか?出来ない、という人がほとんどだろう。日記は3日坊主の代名詞である。ただ、パブリックな空間であるtwitterに「帰宅なう」と書いているからといって、全ての人が本気で「おかえりなさい」や「夕食おいしそうですね」といった返事を求めているわけでもないだろう。これがつまり「他者性なき他者」を通した「自分語り」「自己との対話」である。


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