「反復」と「ループ」―前置きの長い「エンドレスエイト」論―

エンドレスエイト」について細かく説明する必要はないだろうが、要するに「ループもの」の作品として同じエピソードを(演出を変えながら)毎週繰り返し放送しているわけである。作画オタクは作画監督ごとの個性について、演出オタクは「今週の絵コンテは〜だった」という話題について盛り上がる一方、(管見の限りでは)大半の視聴者は「同じことの繰り返しだ」として退屈を感じている、というのが現状である。
ただ、crow_henmi氏が既に書いているように、極めて純粋な「ループもの」であるためにかえって大多数の「ループもの」とは区別される奇妙な作品となっている、という逆説的な事態については、まだ十分な考察がなされているとは言えないだろう。そこでこの記事ではジル・ドゥルーズ『差異と反復』を手がかりに、「反復すること」と「ループすること」の間にある微妙な違い、そしてそれぞれの成立要件について見ていきたい。それによって「エンドレスエイト」のループ構造についても新しい見方をすることが可能となるだろう。

涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

「一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応する私たちの行動の定義である。……これとは逆に、私たちには、反復は代理されえない[かけがえのない]ものに対してのみ必然的で根拠ある行動になるということがよくわかる。行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能なある特異性に関る。反映、反響、分身、魂は、類似ないし等価の領域には属していない。そして一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことはできないのである。交換が一般性[一般性‐特殊性]の指標だとすれば、盗みと贈与が反復[特異性(単独性)(サンギュラリテ)]の指標である。したがって、反復と一般性のあいだには、経済的な差異があるということになる」
――ジル・ドゥルーズ著・財津理訳『差異と反復 上』20〜21頁――

このままでは分かりづらいので、少し言葉を補ってみよう。
まず「一般性‐特殊性」と「単独性‐特異性」の違いについて。この2つの違いを意識することは少ないのだけど、商品になるのが(広義の市場において価値があるのが)「一般性‐特殊性」で、商品にならないのが「単独性」ということになる。「ナンバーワン」と「オンリーワン」の違いでも可。就職面接で「私は世界にたったひとりの、かけがえのない人間です!」とPRしても意味がないようなものか。
次に「交換が一般性の指標だとすれば、盗みと贈与が反復[特異性(単独性)]の指標である」とはどういう意味か。単独性と反復の結びつきについては後述するとして、先述したように「一般性」とはすなわち商品価値を持っているということなのだから、「交換が一般性の指標」というのはそのままの意味である。
「盗みと贈与」が「単独性の指標」というのは少しわかりづらい。この場合の「単独性」は、それが他者との関係において捉えられるものである以上(無人島における単独性とは異なる)、「チームワーク」や「家族愛」といったメタファーによって理解すべきか。チームワークはまさに「(かけがえのない)私とあなた」だから可能になるのであって、「単独性」と強く結びついている。そのため、チームワークを誰かと交換することは出来ない。かといって、チームメイトがそれぞれ単独で所有しているわけでもない。しいて言えば、互いに贈与しあうものである。
あるいは以下のように言うことも出来るだろう。「チームワーク」と呼ばれる関係の中で、私は私自身を完全には所有していない。かといって、他人も私を所有していない。「チームワーク」とは、このような「欠如」「隔たり」を共有するものである、と。「欠如を共有する」とはつまり、互いに所有せず、互いに贈与しあう関係ということになるだろう。これでもわかりづらいだろうが、論旨とはさほど関係がないので、別にわからなくても構わない(私はこの「欠如の共有」を「分有」という概念によって理解しているのだが、「分有」についてはこちらを参照してもらいたい)。


最後に問題となるのが(そしてここからが本題なのだが)、「反復」が単独性の指標だ、という指摘である。簡単に言ってしまえば、単独性(代替不可能性)とはつまり「何かによって取って代わられることがない」ということなのだから、別の言い方をすれば「否応なく続く」ということであり、「反復される」ということなのである。しかし、このような悲観的な捉え方ではあまり面白くないので、別の例を挙げてみよう。
私たちの生活の大半は「反復」によって成り立っている。朝起きて、3度の食事を取り、学校なり会社なりへ行き、夜になったら眠る。ディテールに差異はあっても、大体は以上の内容を「反復」する。それがなぜ「単独性」の指標となるのか?それはつまり「反復」が「それ以外ではありえない」ものを根拠として成立しているからである。例えば、家族(例えば母親)が朝食を作り、それを食べること自体は「反復」される出来事だが、その家族が突然別の誰かに――父親の愛人とか、猫型ロボットとか――に代わってしまったとしたら、それは「反復」される日常とは異質な、特殊な出来事になってしまうだろう。これがつまり「行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能なある特異性に関る」ということなのである。
このように考えると、一般に「ループもの」と呼ばれる作品で描かれる内容は、実際には「反復」を描いたものであると言うことができる。crow_henmi氏が言うように、「一般にループものと呼ばれる作品が、実際に同じシークエンスをループすることは余りない」。しかし、それが「交換不可能な、置換不可能なある特異性に関」っていることもまた事実である。その特異性とは多くの場合「人物」である。主人公にとって親しい人々であったり、物語上の重要人物であったりとその性格は様々だが、ディテールが異なる出来事であっても同じ人々によって行われることで、我々はそれを「ループ」と認識する。このような意味で『CROSS†CHANNEL』のループ構造が「人物の消失」によって崩れていったことは、ループの一般的な性格、「反復」との共通点を考える上で極めて示唆的だと言える。我々は「反復‐ループ」を通して逆説的に、それを構成するいくつかの代替不可能な特異点の存在を知ることができるのである。


ここまで来れば結論まであと一歩である。「反復‐ループ」構造はドゥルーズの言う[かけがえのないもの]「特異性」の存在によって初めて成立する。また「特異性」という概念が「特異でないもの」との対比によって可能となることも自明である。代替不可能な特異性が存在するためには、代替可能なもの、常に変化するものが必要となる。よって、その区別が存在しない場合――すべてが代替不可能、あるいは全てが代替可能――は、ループとしての成立要件を満たしていない、と言えるのではないか。
逆説的な言い方になるが、「まったく同じループ」はもはやループとは呼べないのではないだろうか。
現在放送中の『涼宮ハルヒの憂鬱』の新エピソード「エンドレスエイト」は、crow_henmi氏が指摘するように「全体的には「ひたすら同じことを繰り返す」という印象が前景化するように作られている」。これに対する評価は「同じことの繰り返し」として批判するか、あるいは演出上の微妙な差異を取り上げて「ループもの」としての実験性を評価するか、のどちらかで二極化されているわけだが、制作側の意図においてはおそらく後者の方を狙っているのだろうと思われる。
ここで強調しておきたいのは、先述したようにループがループとして認識されるのは、それに先立って微妙な差異が認識されるためだ、ということである。それが認識されず「同じことの繰り返し」と断じられる場合と、演出の微妙な違いを意識し「実験的なループもの」と賞賛される場合との間には、単なる肯定/否定を越えた大きな溝がある。
ここまで「反復‐ループ」と両者を同じものとして扱ってきたが、おそらく一般的な認識であろう「ループ=同じことの繰り返し」という概念を踏襲するならば、「完全なループは「ループもの」とはなりえない」ということであり、「「ループもの」はループする必然性のないもの(代替可能なもの)を取り込むことで可能となる」ということである。別の言い方をすれば「ループ」から「反復」へと近づいて行くことで「ループもの」となる。「エンドレスエイト」は、ほぼ純粋なループであるため、視聴者がその中の微妙な差異を見つけ出す努力をしなければ「ループもの」とはならない。
要するに、視聴者の見方によって作品解釈は変わる、という当たり前の話をこれだけ長く書いたわけである。