『群青の空を越えて』についての雑感

群青の空を越えて windows vista対応版

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半年ほど前から少しずつ進めていたのだけど、最後は半日使って一気にクリア。「人を選ぶ」という評判は事実だと思いますが、それはよく言われているように「説明なしに軍事用語が出てくる」とか「舞台設定が奇抜」といった理由ではなく、結局最後まで明確なアンサーを出すことの出来ない内省的な(というか躊躇いがちな)シナリオに付き合いきれるか、という点が分かれ道になっているような気がしました。軍事用語は私にも全然わかりませんでしたが、雰囲気は味わえたので十分満足です。他の人はどう評価するか気になったので軽く調べてみましたが「私は大丈夫だけど用語がわからない人には辛いだろう」なんて書く人が多くて、みんな自分の見かたに自信がないんだなぁ、と。
基本シナリオ5つ。これを全てクリアすると最終ルート(グランドルート)が現れます。ひとつ目のシナリオをクリアするのに7時間くらいかかったので、最終ルートに入るまで全部で35時間くらいかかるだろう、そんな暇なやついるのかよ、と思っていたのだが、何だかんだ言いながらクリアしてしまいましたね。
この作品で描かれた主人公たちの葛藤は、だいたい以下のように要約できると思います。大切なものはいつか壊れてしまうし、人は簡単に死んでしまう。だから死んでもなお残るもの(思想や社会システム)があればいいと願うけれど、ある意味では「死んでもなお残るもの」に拘るから「死にたくない」という素直な気持ちに気づかなくなってしまう。しかし、単純に思想を捨てて素直になるという道をとることも出来ない。それが単なる建前であったとしても、人間は建前なしには生きられないのだから……というわけで、いかにして建前に決着を付けるかが問題となります。以下では各シナリオについて少し。


全部で5つ(グランドルートを入れて6つ)のシナリオは、大本に一本筋の通った設定があるので、その多用な側面を各シナリオに分散して戦争の全体像を提示しようとする意気込みは十分に感じました。ただ、主人公の選択とシナリオの分岐との間にまるで因果関係が見出せないのはどうかなぁ、と。
この物語における重要な出来事は物語が始まった時点で既に終わってしまっているので、主人公の選択によってシナリオが分岐する、ということに説得力を持たせられなかったのでしょう。結局、主人公の選択如何に関らず歴史は進んでいくということなのでしょうし、各シナリオは選択されるまでもなく存在している別世界として描かれています。少なくとも主人公=プレイヤという図式は全くあてはまりません(この作品が視点の切換えを多用する群像劇形式を採用しているのもそのため)。そこでグランドルートの存在が小骨のように引っかかるわけですが、そのグランドルートですら「こうでしかありえない」という結末を提示しなかったことは興味深い問題だと思われます。
個別ルートについては、メインヒロイン3人のシナリオは基本的に「大切なものはいつか壊れてしまうから―いらない/大切にしましょう」の選択で、さっさと後を選べばいいのに前を選んでしまって葛藤する話、と要約できるでしょう。戦争の話は背景で、主題ではありません。個人的には恋愛話として戦争を突き抜けていった日下部加奈子編が一番好きかなぁ。思想なんてどうでもいいよ、俺たちは〜の為に戦うんだ!という割り切り方は、この作品の本質をよく表している、と思います。この話はまた後で。
もうひとつ、渋沢美樹編については、プレイヤが求めるヒロイン像と、現実のキャラクタとのギャップが、これ以上乖離すると激しく反感を買うであろうギリギリのバランスを描けていました。視点を切換え、ヒロイン自身の心理描写を密に行うことで「わかったつもり」にさせてくれる。もっとも、ヒロインの心理描写を一切廃した方が、かえってリアリティのある女性像を描けたのではないかという気もしますが。酷な言い方をすれば主人公を手玉にとって、それで反感を買わずにすむというのは、心理描写が「男性好みの悪女」として描かれているということじゃないかな、と。
設定はそれほど出鱈目だとは思わないのですが(もちろんその必然性については異論がある)、現代の国民国家が限界に来ているからといって、国家そのものが限界だとは言えないよね、というのが率直な感想でしょうか。あとHシーンは泣けます。「普段は鈍感なくせにベッドの上ではドン・ファン」というその他エロゲ主人公たちも見習ってほしいと思いました(本当は全然思ってない)。


最後にグランドルートの話ですが、個別シナリオよりは圧倒的に良かったと思います。感動的でもあるし、同時に思想の無力、現実の重さという作品全体を貫くモチーフがもっとも強く現れたシナリオだったなぁ、と。「円経済圏」という物語世界を支配する思想が詳細に説明されながら、それが「建前」でしかないことを見せ付ける終盤の展開には多少の戸惑いすら覚えましたが。
物語のクライマックスに主人公は戦争を終わらせるための演説を行いますが、その演説を、今戦っている人々は誰も聞いていない、というのが最高に良かったですね。結局、思想とは関係のない要因(利権争い)で始まった戦争は、思想とは関係のない場所(泥の味がする戦場)で終わるのです。それでもってエンディング曲は「tell me nursery tale」(おとぎ話を聞かせて)。「I'm waiting for someone bring happy to me」と歌われますが、どのような理想も自分を幸せにはしてくれない。要するに、この作品は思想の力よりも個々人の「幸せになりたい」「幸せにしたい」という気持ちを信じたのです。だから、主人公の演説で世界が平和になりました、という結末を描くことが出来なかった。
戦争というテーマを扱っているにも関らず、この作品が描きたかったのは、ただ純粋な恋愛話だったのではないか、と思います。
あと、Hシーンのないグランドルートが一番面白いっていうのはエロゲとしてどうなんでしょう。


以下は
http://donotfinish.seesaa.net/article/120267241.html
を読んでの追記。迷いながら書いた(そして『群青』の制作者も迷いながら作ったに違いないと思っているのですが)上記の内容について、リンク先の記事はその論点を整理し、また問題を明確にしてくれたように思われます。
国家が擬制である、という点についての補足を少し。
それが擬制であることには違いないのでしょうが、そう指摘することによって擬制から自由になれるわけではない……というのが私の考えです。加奈子編(だったかな?)では社が、皆から逃げるように言われ、円経済圏のフィクション性を社自身が認めたにも関らず、「それでも」戦いから逃げ出せないというエピソードがありましたよね。そしてふたりが結ばれるのは、国家がそもそも存在しないような北海道の奥地であるという……。
グランドルートも基本的には同じ問題意識を引き継いでいて、社会システムが絶対的なものでないことを社が演説するのと同じ時間に、その社会システムのために兵士たちが命をかけて戦う姿が描かれています。だからこそ社は最後に自問しなければならなかった。「なぜ俺たちは戦い続けてきたのでしょう……」と。
いわば「理解していても逃げられない」ところにナショナリズムの神秘があるわけで、それを加奈子編で描いていた(と僕は思った)からこそ、グランドルートの中盤で社が「幻想は見るものではなく見せるものだ」なんて冷めたことを言うのに少し戸惑いを感じてしまったわけです。クライマックスで社は再び気づくのですが、おそらくこの作品におけるイデオロギィと現実社会はきれいに区別できるものではなく、イデオロギィに没入せざるを得ない我々の生き方もまた現実である、ということなのでしょう。
その現実に直面した社は「なぜ俺たちは戦い続けてきたのでしょう……」という自らの問いかけに対して答える事が出来なかった。そうやって立ち止まること、死に対して安易な理由付けをしないことが倫理的に見て正しい態度であることは認めるにしても、我々が社会的動物であることに対してより自覚的であれば、何らかの答えを出すことは可能だったように思われます。
それは例えば、導き出された答えが絶対に正しいものでなかったとしても、それを信じて遂行していこうとする「意志の絶対性」は真実である、ということ。「意志の絶対性」のもとにおいては、予め決まっている「模範解答」を目指すのではなく、自分の存在をかけて正解を創出すること、その意志を素直に肯定すれば良かったのではないか、と僕は思います。答えを生み出そうとする意志が重要なのであって、答えの中身は取替えがききます。そして、その意志を貫いていくためには他者の意志との戦いが避けられないだけでなく、必要でもある。それはマックス・ウェーバーが言うように「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ」(職業としての政治)ということなのです。