南京事件関連の議論について

歴史学者の末席に座るものとしては、粘り強く啓蒙活動を続ける方々には頭が下がるとしか言いようがないのですが、同時に「これでは埒があかないのではないか?」と思うのも事実です。何というか、どうしても「アドレス」と「文体」がずれているという違和感が拭えません。
そもそもの問題として「学者の言葉の権威失墜」という事実があるわけですが、それを無視して学者の言葉(文体)で語りかけても仕方ないのではないか、と。これは「新書みたいにわかりやすく書け」と言ってるわけではありませんよ。ただ、記憶を分有するための手段は歴史学に限られないし、ルポタージュや小説の技法だって必要なら取り入れればいい。今の我々に必要なのは、より厳密な歴史の知識ではなく、歴史を語るための実践的なナラトロジーではないかなぁ、と。
それでまあ、読書会とかやれたら面白いのに、と思うわけです。入門として岡真理『歴史/物語』、あと『アウシュビッツと表象の限界』なんて今の議論にうってつけの本だし、僕が以前投げ出したジャン=リュック・ナンシー無為の共同体』も、そういうイベントがあれば読めるかもしれない。それでもって、スピヴァク、サイードバーバのポストコロニアル三人衆を抑えたらアーサー・ダントー『物語りと知識』、ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』と流れてついでにガダマー『真理と方法』、あとは色川大吉『自分史 その理念と試み』、安丸良夫出口なお』と、これくらいの知識が共有化できれば、この言説空間もだいぶ風通しが良くなるのではないかと思います。そして僕も本を読む手間が省ける(えー)。