沢木耕太郎のルポタージュ『クレイになれなかった男』に下のような言葉が出てくる。
「“燃えつきる”―この言葉には恐ろしいほどの魔力がある。正義のためでもなく、国家のためでもなく、金のためでもなく、燃えつきるためだけ燃えつきるこの至難さと、それへの憧憬。あらゆる自己犠牲から、あとうかぎり遠いところにある自己放棄。」
沢木は自らの取材対象のボクサーに、カシアス・クレイのような栄光をつかんでほしい、さもなくば、燃えつきてほしい、と願う。栄光をつかむことと燃えつきること、この、正反対の結末が共に望ましいものとして現れるのである。
「栄光」とは第三者の審級、つまり神のようなものだ。対戦相手に痛めつけられ、ぼろぼろになった顔でさえも「栄光」をつかむことでポジティブに評価される。このように正と偽、明と暗を決定する第三者の審級だが、一切の正偽、明暗、善悪を否定することによってもまた現れることがある。究極的な破壊の力―マクロな物語であれば大量破壊兵器であり、ミクロな物語であれば個人の一切を消し去る力―「燃えつきる」ということ。これもまた「第三者の審級」なのだ。『あしたのジョー』の終わり方が、なぜ「あれ以外ではありえない」と思えるのか、ちょっとわかった気がする。


・実は今期のアニメでストーリィを把握しながら観ているのが『けいおん!』しかないという、逆説的な事態が起こっている。内容が無い無いと言われるあの『けいおん!』しか、僕はストーリィを把握していないのである。何てことだろう。他はまあ、リアルタイムで都合があえば観る、という感じ。しかし、それでまったく不自由を感じていないので、気持ち次第でストーリィなんてどうでもよくなる、ということかな。『Pandora Hearts』なんかが面白い。


・『黒神』のOPは、冒頭がとても印象的。『見知らぬ乗客』の冒頭に似ているかな。複数の方向から足が近づいてきて、道に描かれた矢印によって収斂される。この矢印が実に効果的に働いている、と思う。ただ、本編にはそれほど魅力を感じない。ここでロングショットを使うのはもったいないなー、とか、見得を切るようなポーズがいちいちダサいな、とか。第1話とか第2話を観たときは結構面白そうな感じがしたのだけど。しばらく観ないうちに、よくわからなくなってしまった。


山本寛の演出家としての技量はともかく、『らき☆すた』第1話でチョココロネのどーでもいい話をやったことだけは評価していいと思う。「けいおん」のギターは、将来でなく現在を充足させるための戯れの材料として……という批評も筋がいいと思うのだけど、「でも、らきすたよりは後退してるよね」と。


・エロゲやるようなマイノリティは地下に潜れ発言について。本当に地下に潜ったマイノリティが内ゲバを始めた先例を鑑みて、完全に内に潜ってしまうよりは、マジョリティとマイノリティが「共通の言語で」会話することで、両者の境界を固定しないことが重要だと思われる。ゾーニングの効用を否定するわけではないのだけど、問題は「自分たち」にしか通用しない言語が生まれて、互いに没交渉になって、内ゲバ始めたりすることなんだろうなぁ、と思う。
・この世界がマイノリティとマジョリティとして綺麗に切り分けられるものではなく、異種混淆的的なものであり、みんながマイノリティであるとも言えて、そして「マイノリティである」ということによって新しい繋がりが生まれてくる、そんな共同体はありえないものだろうか。均質性によって共同体が生まれるのではなく、異質であることによって生まれる共同体――例えば、アイリッシュ・パブに出かけて、他の客に英語で話しかけたら日本で返されて、へたくそな英語とへたくそな日本語が飛び交うような、そんな空間。ただ、異質であることによって生まれた共同体も、それが定着すると同時に固定化するので壊されなければならない。
結局、「異質な他者を排除しない共同体」なんてものは決して完成しないのであって、壊しては作り壊しては作りする根気と、自分自身の異種混淆性を自覚したときに生じるアイデンティティの喪失と、「他者」への語りかけを続ける誠実さとか、色々なものが必要になる。「割に合わない」共同体という批判は免れないだろう。


文学フリマの話題で盛り上がっているのをみると、文化の中心ってやっぱり東京なんだなぁ、と思う。今は京都人だけど、もとはさらに田舎の人間だったので、その辺を見誤ったかな。ええまあ別にいいんだけどね!お寺ならいっぱいあるもんね!


・遅くまで大学に残って勉強して、家に帰ったらあとは遊ぶ、という生活をしている友人が何人かいるけれど、自分にその区別はない。たぶん、学問に対する考え方が違うのだろう。ここからここまでは学問、あとは趣味、という区別が、自分にはあまりない。エロゲするのも勉強のうちだと思っている。不勉強の謗りは免れないところだが。