エロゲという表現手段に対するひとつの答え:『ef - the latter tale.』について

ef - the latter tale.

ef - the latter tale.

5つの物語によって構成されたminoriの『ef - a fairy tale of the two.』。そのうちの第1・2章を収録した前編『ef - the first tale.』が発売されたのは一昨年の12月のことでした。
第1章では少年とふたりの少女との三角関係を、第2章ではその三角関係に敗れた少女が立ち直るまでの過程を、他に例を見ないストイックさで淡々と描くその作風に対しては、キャッチィな展開に慣れたユーザから少なからず「つまらない」「退屈だ」という批判の声が上がったことは事実です。しかし、主人公とヒロインという「1対1」の関係がハッピーエンドに至るまでの過程を描くことに力点を置いてきた従来のエロゲに対するアンチテーゼとして、『ef』を高く評価する向きがなかったわけではありません。僕もそのひとり。
そして今年の5月30日、後編の『ef - the latter tale.』が発売されました。完結編ということで留保なしに評価を下せること、それと読者を謎への興味で引っ張っていくミステリィ的な要素が強いこと。そのような理由から、世間での評価は概ね高いようです。それこそ『first tale.』での貶され方が嘘のように。
しかし。
それで十分か、と問われればそうではない。この『ef』という作品の特異性は、minoriだけでなくエロゲという表現自体がこれまでに蓄積してきた「伝統」の上に立ち、時にはそれに従い、時には裏切りながら物語を進めていく総合性にあると僕は思います。


さて、『first tale.』が夢に向かって今まさに走っている最中の人々を描いた作品だとすれば、『latter tale.』に描かれているのはその逆、全てにおいて行き詰ってしまった人々であると言えるでしょう。
例えば第3章のヒロイン・新藤千尋。彼女は最近の記憶を13時間しか維持できないという特殊な障害を抱えています。どんな経験をしても、どれだけ幸せな記憶を積み重ねようとしても、彼女は13時間で忘れてしまう。シナリオの御影氏はその不可能性を執拗なまでに描き出そうとします。第3章の大半は実質、彼女がいかに行き詰っているか、僕たちの理解を超えた存在かということを説明するのに費やされていると言ってよいでしょう。
彼女の存在はある意味「攻略不可能なゲーム」に似ています。ゲームの主人公である千尋は、経験値をためることも、途中でセーブすることも出来ません。そのゲームに挑むのは麻生蓮冶。彼はいかにして千尋をゴールへと導くのか……。という話なんですが、詳細はネタバレになるので略。
ところで、第3章のラストで蓮治が取る方法に関しては、少なからず不快に感じる人もいるだろうと思います。アニメ版での「あったかもしれない結末」を知っている人にとっては、特に。ただ、不可逆的な物語を紡ぐアニメと違って、ゲームは基本的に可逆的です。物語が一度終わりを迎えると、プレイヤも主人公も全ての経験がリセットされる、というのがゲームの常道。その意味で、第3章のラストはゲーム的な流れに乗りながら、そこから逸脱することを目指した野心的なものであると言えるでしょう。この話はまた後で……。


この『latter tale.』について考える上で、御影氏がこれまでに関わってきた作品との関連性を指摘しておくことには、それなりの意味があるように思われます。
まずは御影氏の監督デビュー作『水夏』について。7年も前の作品なのでご存じない方も多いでしょうが、全4章の群像劇という構成が用いられていることや、三角関係(1章)・記憶の不確かさ(3章)・親しい者の死(4章)といったモチーフの存在、視点によってがらりと印象を変えるキャラクタ造形などは『ef』にもそのまま当てはまります。
また、『水夏』の第2章は御影氏が自らシナリオを担当したものですが、そこではヒロインの白河さやかが主人公に向けて「白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよう」という若山牧水の歌を教えるシーンがあります。これも『ef』第3章で久瀬が千尋に「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」と牧水を教えるシーンに繋がっている。御影氏の持ち味は、こういった進行上必ずしも必要ないようにも思える挿話を積み重ねていくことで、意外な行動を取ったり、時には矛盾して見えたりする人間のリアリティを描き出していくことにあるのではないかと思います。
また、御影氏の代表作『D.C.〜ダ・カーポ〜』では主なシナリオを読み終えると隠しシナリオ「D.C.」が現れ、その中で、本来はパラレルに存在するシナリオを俯瞰的に総括するという試みが行われています。それを受けてアニメ版の最終話では

「人生はゲームのようにリセット出来ないと言うけれど、本当にそうだろうか。つまずいても、ダ・カーポのように、また最初からやり直せばいい。俺はそう信じたい。それは、決してゼロからの出発ではないはずだから」

というセリフが主人公によって語られますが、これは『ef』にもかなりの部分で当てはまるでしょう。本来はバラバラに存在するシナリオを通して経験がひとりの登場人物の中に蓄積されていき、その力が物語を導いていくことになる。
マルチシナリオという孤独な物語に対して疑問を抱き続けてきた御影氏が出した答えとは、このようなものであったのか、と腑に落ちた気がします。


さて、御影氏についての話でもうひとつ、小説家・森博嗣の初期作品(S&Mシリーズ)からの影響についても指摘しておきたいと思います。
御影氏自身のサイトでも「素敵な作品」として真っ先にS&Mシリーズが挙げられていること、ほとんどナンセンスにも感じられる比喩のセンスや「虚構」に対するシニカルな態度などがその傍証として挙げられますが、例えば文体のレベルだと

「友人とのお茶会は楽しかったようで、彼女は夕食の時からジャガバタみたいにほくほくしていた」

というギリギリの比喩だとか

「それは質問か?」
「いや、肴だよ。水族館みたいに意味のない会話」

といったズレた会話に森博嗣からの影響を見ることが出来るでしょう。あと、第4章が始まった直後のミズキと久瀬の会話は、S&Mシリーズの犀川と萌絵の会話を彷彿とさせますね。ファジィで場つなぎな会話を楽しむミズキと、その論理的な矛盾を指摘する久瀬。瑣末な部分だと、雨宮優子の母親がコンクリートの研究者であるところとか(森氏は元N大のコンクリート研究者です)。
そして、「死生観」であったり、群像劇を描く上で避けられない人物像の「矛盾」を巡る問題であったりといった、物語を貫く思想のレベルにおいてもやはり両者は関係しています。例えば第四章の主人公・久瀬修一が夢の中で独白しているシーン。

「過程のために死ねる生命。人間が高等と言われる由縁。許容の思考」

御影氏の生み出すキャラクタは、いつだって複雑で難儀な人格を抱えています。ある部分は大人であり、別の部分は子ども。この上ない幸せを感じながら同時に不安を感じたり、何かに憧憬を抱きながら嫉妬していたりする。
そしてまた、過程と結果、正と偽、善と悪など諸々の矛盾する概念をひとりの人格の中で共存させることが人間的な知のあり方である、という主張は森作品においても繰り返し語られてきました。真賀田四季の「矛盾は綺麗」というセリフはその代表的なもの。
しかし、もっとも重要な類似は、読者の感じている物語上のリアリティを逆手に取ったストーリィ構成にあると言えます。
例えば、萌え要素を詰め込んだ愛らしい外見のヒロインを、場違いにも思えるほど過酷な状況に突き落とす容赦のなさ。悪人が出てきても、その悪事に対してわかりやすい動機を与えようとはせず、あえて理解不可能な部分が残される。そして、これは千尋と蓮治の物語において顕著ですが、一方が相手に対してそれと気づかれず「演技」をしているという可能性を導入することで、ヒロインから主人公に向けられる好意にまでプレイヤに疑問を向けさせます。つまり、他人を完全に理解するとか、愛するもの同士は心が通じ合っているとか、外見から心情を推し量ることが出来るといったわかりやすい「お約束」を一貫して拒否しているのです。
登場人物の中で実は一番賢いのではないかと思われる千尋が、あまり頭の良さそうに見えない(失礼)外見や立ち居振る舞いを見せていることは、僕たちに対して認識のリアリティを問いかけているように思われます。


最後に、minoriという得体の知れないメーカについて少し。
処女作の『BITTERSWEET FOOLS』では群像劇という手法を採用しましたが、それは物語の密度を薄めてしまうというあまり好ましくない結果に終わりました。次の『Wind』では物語の舞台である「都市」に焦点を当てましたが、それは結局、キャラクタの日常をかき乱す異物でしかありませんでした。そこで3作目の『はるのあしおと』では、ギミック的要素をすべて切り捨て、ストレートに「恋愛」と「成長」を描くことで高い評価を得ました。しかし、痛くて痛くて仕方のないストーリィ、一般受けするとは言い難い絵柄などが災いし、評価は局地的なものに留まったと言えます。
演出は一貫して進歩を続けていますが、ストーリィにおいては毎回異なるテーマに挑戦し、その度に新しい課題を見つけている。そういった諸々の反省を活かし、現在のminoriが到達することのできる最も高い場所に足跡を刻むこと。『ef』の意義はそこにあるのではないか、と僕は考えます。

BITTERSWEET FOOLS』で“物語”を描く事を、『Wind -a breath of heart-』で“情景”を焼き付ける事を、そして『はるのあしおと』では演出の深化により“心”を込めることを、私達はインタラクティブ・ノベルという表現の上に立ち、追求して参りました。


そして今、本作『ef - a fairy tale of the two.』で、これまで取り入れてきた総てを凝縮した結晶を、お届けできる事となりました。
(minori公式サイト)

『ef』が掲げたこの宣伝文句は、この上なく正しいと言えます。演出においても、ストーリィにおいても、広い客層に訴えかけていくにはもはやオーバースペックと言ってもよいレベルに達している。そして、ずば抜けた完成度を持つだけに「次」が見えない……。次回作がどのようなものであれ、おそらく『ef』とは全く違った方向に進んでいくのではないか、と僕は想像しています。