『ef - a tale of melodies.』第8話についての註釈と雑感

今回の話については、これまでとは幾分トーンが変わって、どうとでも解釈出来るようなシナリオと演出だという印象を受けました。繰り返し観ると「あ、なるほど……」と思うようなところも多いのですが、初見の印象はいまひとつ。
例えばAパート、火村の持っていた紙飛行機を見つけた優子が「同情ですか。哀れみですか。そんなもの欲しくありません!」と言って部屋を飛び出していくシーン。最後まで観ると、紙飛行機には優子の「たすけて」というメッセージが書かれていて、それを読んだ火村が同情して優子を連れ出した、と思い込んで彼女は出ていったのだということがわかります。ただ、それがはっきりするのはCパートに入った後なので、この時点では優子に感情移入するのは難しい。そして最後まで観ても、もしかしたらこの時、火村は紙飛行機に「たすけて」と書かれていたことを知らなかったのでは?という考えも否定できないため、何となく割り切れない感じが残ります。
時計が無くなっていることに気づいた優子が「また失う……」と呟くのも、火村が大切な時計だけ持って逃げたのだと思い込んだせいで、それを誘った雨宮兄の策士っぷりが炸裂しているわけですが、みなさんは気付きましたか?あと、久瀬が火村や凪に向かって暴言を吐いたのは、ミズキに続いてその2人の関係も「清算」しようとしたからじゃないかなぁ、と。そう考えると、久瀬自身は何もかも清算したつもりだったのに、彼の本音を記したメッセージだけが残った、という点で新藤千尋の話とも対応するでしょう。しかし、これも解釈が分かれるのではないかと。
一部を除き、演出も端整なものが多く、ちょっと意外な感じがしましたね。なんとモブシーンがある!普通のアニメみたい(それが雨宮兄のいう「逃避」なのか?)。あとはベタなのかネタなのか判断に困るシーンが少しあった程度。

崖っぷちで説得って、お昼のテレビドラマみたいですね……。作り物というか、お芝居のように見えてしまう。このシーンの位置づけを考えると、そう受け取られることを狙っているのかもしれません。しかし、これはさすがにテンプレに乗っかりすぎではないかと。

照明の変化。内と外とを明確に区分する屋内灯から、明るい満月、そして暗い三日月へ。徐々に欠けていくことで心理状態の変化を表しているのでしょうが、特に火村と優子が屋内灯を見上げるシーンは、この作品においては極端なくらいに迫害されている人工照明の復権として興味深い内容でした。しばしば描かれる、周囲を照らさない照明。暴力的に割り込んでくる窓からの光。扉が他者との出会いの場だとすれば、窓とは身内の中の他者性を発見する場であると言えるのかもしれません。

前回に引き続き描かれた、橋の上で向かい合う2人という構図。橋は一種の境界ですが、前回の火村はそれを越えていったのに、今回は越えなかったという違いは大きいのでしょう。雨宮優子は戦いをけしかけ、雨宮兄は立ちはだかった。雨宮兄は本当に良いキャラクタですね……。結局、雨宮兄は優子をどうしたいんだ?と聞きたくなるのは、僕が所詮は普通人だからでしょう。理解することを断念させてしまうような、強い他者性を感じさせます。思想的には『HELLSING』の少佐が近いかな。
全体の感想としては、「雨宮優子にもう会えない」という言葉をミスリードさせようとする狙いのためか、ミズキ編は話がぶつ切りになってしまい、いまひとつ流れに乗れませんでした。ヴァイオリンの話も、「たすけて」のメッセージも感動的な内容なのに、唐突な印象を受けてしまう。
次回に期待ということで、短めですが今回の記事は以上です。