『ef - a tale of melodies.』第3話についての註釈と雑感

前作のヒロイン・新藤千尋の登場により、もうひとつの物語がひっそりと幕を開けた第3話。急展開を見せた久瀬修一・羽山ミズキの物語も目が離せないところですが、火村に優子との関係を問いただす雨宮(兄)が別れ際に見せた殺意のこもった視線も今後の伏線として重要。第1期の台詞・モチーフの借用がちょくちょく見られるのも面白い。そんなわけで大忙しの第3話、今回も注意深く見ていきましょう。

最初に登場するのは二人の久瀬。ひとりはバイオリンを弾き、もうひとりはそれを眺めています。眺めている方の久瀬は立ち上がり、もうひとりに向けて銃を撃つジェスチャーを見せる。その直後に「二人とも」倒れてしまう。これはつまり、バイオリンを弾く久瀬を久瀬自身が殺す、自殺のイメージと見て間違いないでしょう。今回のラストシーンの伏線となっています。
また、このシーンの興味深い点として、二人の久瀬がそれぞれ黄色と薄い赤色によって明快に塗り分けられているにも関らず、久瀬が引き金を引いた直後にふたりの立ち位置が入れ替わり、撃った側と撃たれた側との混同が起こっていることが挙げられます。これによって二人の久瀬は等しく撃ちまた撃たれ、一人の久瀬として舞台に倒れこむのです。
というのがひとつの解釈ですが、正直言ってよくわからないですね、このシーン。赤い方の久瀬が倒れる瞬間に仮面の外れる描写がされるのですが、そもそも仮面なんて付けてないし。立ち位置の変化にしても、第1話のAパートで見られたように意味もなくイマジナリーラインを越えている(そして繋ぎ間違えている)ので、深い意味はないのかもしれません。この辺はぜひ他の方の意見を聞いてみたいところ。

次に出てくるのが、夢という無意識下で久瀬との繋がりをアピールするミズキと、第1期11話で大活躍した異常に大きな月。地平線近くの月は大きく見えるというのは本当の話ですが、この場合はふっと空を見上げて月を見つけたときの主観的な大きさが反映されているように思われます。第2話では優子の背景に沈みかけた太陽が配置され不吉な印象を強めていましたが、こちらの月は夢の象徴といったところでしょうか。ミズキと月を隔てる窓は完全に閉められていますが、射し込む月明かりが夢の余韻を感じさせます。


OPを挟んでAパート。第1話と同じく、優子の飛ばした紙飛行機が火村の足元に落ちてくるところから話が始まります。参考までに第1期も含めた「紙飛行機の系譜」を書いておくと、以下の通り。
火村(子ども)が過去との決別のために飛ばす⇒優子を経由⇒火村(青年)に帰ってくる⇒空白⇒広野が飛ばす⇒千尋も飛ばす⇒蓮治に届く⇒空白
といった感じ。ひとつ目の空白に入るのは、人間関係から考えて凪あたりが妥当か?ふたつ目はミズキ⇒火村かなぁ、と思います。
話を戻しましょう。階段の踊り場を舞台に火村夕・雨宮優子・雨宮明良(雨宮兄)の三人が始めて顔を揃え、優子が雨宮兄に向かって「兄さん」と呼びかけたのを、優子から「お兄ちゃん」と呼ばれている火村が勘違いするという描写がされています。この「兄さん」と「お兄ちゃん」の微妙なニュアンスの違いというのは、例えば『D.C.〜ダ・カーポ〜』でも利用されていましたね。前者の方がやや大人びた印象。そのため、優子が火村の目の前を通り過ぎるカットはスローモーションで表現され、髪が流れる女性的な姿を強調しています。

上に挙げたのは「優子のために」走っていく火村の姿を見送る優子の姿を捉えたカット。火村の方(右側)を向いているのは確実ですが、優子はなぜか右寄りに配置され、火村へと向けられる視線を表現する余白が与えられていません。どうも彼女はただ火村を眺めているだけではなく、別の何かを考えているらしい、ということがこのカットから読み取れるでしょう。例えば「何をむきになっているのだろう」という風に。今回のラストでは、優子は火村に向かって、人間とは薄汚いものであると言い放ちます。そのことからも、優子が火村の善意を冷笑的に見ていることは疑いようがありません。


続いて久瀬・ミズキ編。
第1期の麻生蓮冶と同じくミズキは教会を訪れ、久瀬に深入りしないように忠告されます。しかし前回に比べると、言葉をためらったり、「大人の世界は色々あるんだよ」と言えば「子どもの世界は何もないみたいな言い方ですね」と言い返されたりと、対等な関係に近づいています。蓮冶の物語は突き詰めると「大人にあこがれる少年の話」であったのに対し、ミズキの物語はそうではない、という違いでしょうか。この辺の大人/子ども論議は別の機会に触れるとして、ここでは原作が森博嗣の強い影響を受けていることを指摘するに留めたいと思います。

新藤千尋with夏服。千尋とミズキが顔を合わせてから、千尋が「この駅、電車来ませんよ」というまでの矢継ぎ早のカット繋ぎが非常に印象的です。クローズアップからフルショット、ミディアム、ロングとショットサイズを変えていくことで緩急をつけ、時間を上手くコントロールしています。他に気になったことと言えば、人物の背丈に合わせて都合よく形を変える建物の影が気になったことくらいでしょうか(今のところ)。このデタラメさは光源の位置を明らかにしないからこそ可能になるわけですが、例えば火村が雨宮兄に呼び出され優子との関係を聞かれるシーンでは、天井に電灯が描かれているのにそれが全く機能していない、単なるオブジェになっているという点で典型的な使い方がされています。


さて、火村からの伝言を受けてミズキは海へと向かいます。未練を断ち切るため、最後の演奏を行う久瀬。演奏そのものの長さは1分にも満たず、せめてこの倍は欲しいところでした。しかし、その後のシークエンス、特にバイオリンに火をつけるまでの場面は良かったです。久瀬が空を見上げると、冒頭に登場したのと同じ月が浮かんでいる。彼は夢を現実のものとするために火をつけます。そして彼は「無様だな」と呟くのですが、これは何に対しての言葉なのか、少し考えてみるのも良いでしょう。

ためらわずに海へと飛び込んでいくミズキ。そういえば、第1話で優子も海に入っていましたね。濡れることを厭わない子どもらしさが、久瀬や火村とは対照的。
第1話でも取り上げましたが、水というのは「時間」のモチーフと相性が良いように思われます。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」でしたっけ?形を留めながら、それでも内面的な変化は必然的に訪れる。ひとことで言えば「無常」の感覚です。
しかし、未来は選択することが出来る。それを知っているミズキは自ら水の中に飛び込んでいきます。そのような「希望」への信仰こそが、彼女を『ef』の真の主役たらしめている由縁であると僕は考えます。詳しくは次回以降。