『ef - a tale of melodies.』第9話についての註釈と雑感

大学院入試のため中断していた『ef2』全話レビューですが、これを終わらせないと次の記事が書けないという、魚の小骨みたいな存在なので、何とか残り4話分についても書いてみようと思います。あくまでも自分にとっての区切りをつけるための試みなので、自分以外に誰一人読んでなくても、別にいいかなぁという心境。
なお、表題にある「註釈」という言葉を、僕がどのような意味で使っているかについてはこちらの記事を参照してください。

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まずは火村夕・雨宮優子編から。
ずっと忘れていた「本当の妹の顔」を、雨宮兄は夕の描いたスケッチを見て思い出す。そして雨宮兄は屋敷に火をつけ、自殺する……というクライマックスに向けて、前回までのゆったりとした展開が嘘のように、一気に駆け上がっていきます。その中で、雨宮兄はなぜ自殺したのか、という当然の疑問に対して「それらしい」説明がなされることは、結局最後までありません。
雨宮兄、久瀬、茜、優子といった死にゆく人々、そして震災による大量死の経験。そして新藤千尋によって象徴される「記憶すること」の困難。『ef1』から一貫して描かれてきたことは、失われてしまった/失われてしまうものをどのように記憶するのか、という問題でした。新藤千尋とは違った形で、雨宮兄もその困難に直面します。
なぜ自分の妹は死んだのか、同じ顔をした優子は生きているのか、と雨宮兄は自問します。このとき前提となるのは、震災による「大量死」の中で妹の死の固有性が失われたことであり、同時に「死」を語るための言葉を奪われたという事実が存在しています。そして、夕は雨宮兄の自問に対して「運が悪かったからだ」と答えますが、雨宮兄は納得しません。
夕の主張とは、「死」に対する意味づけを拒否し、「大量死」という事実をそのまま記憶することです。死への意味づけは、同時に生の意味づけにもなりますが(「私が生き残ったのは使命があるからだ」)、夕はそれを拒絶する。他者との関係性の中で生の意味づけを行おうとする『ef』においては、あえて死を媒介にする必要はないし、理不尽な死であることが本質である「大量死」という記憶をゆがめることは倫理的にもよろしくない……ということでしょう。
しかし、他者との関係を持たない雨宮兄にとっては「死の意味」だけが自分の生を意味づける手段であり、火村の主張を受けいれることは出来ません。その対立を止揚するために持ち出されたのが、火村のスケッチブックです。スケッチブックに描かれた幼い優子の姿を見て、雨宮兄は震災以来忘れていた妹の顔を思い出します。そして――多少強引な論理展開なんですが――雨宮兄は死ぬ瞬間の妹の顔を想像し、「大量死」によって失われた妹の死の固有性を取り戻したのでしょう。それによって雨宮兄は「妹と一緒に死ぬ」という念願を果たすことが出来たわけです。
しかし、雨宮兄が自殺するために火を放ってから彼の姿が見えなくなるまでの間、彼が無言であること、それにもやはり意味があるように思われます。彼が初めて受け止めた「妹の死」という出来事、それが表象の限界を超えた出来事であることを、この無言のカットは示しているのではないか、ということ。現実において見ることの出来ないもの、推し量ることが出来ないものを、物語という形式をとることによって初めて、それが「我々の認識を超えたもの」として提示することが出来たのではないか、ということです。
長くなりましたが、『ef』の本質に関る話であり、次の第10話とも関係の深い内容なので多少詳しく書いてみました。続いて演出の話も少し。

衝撃の新事実!というほどのことではないのですが、火村夕・雨宮優子の「過去編」は撮影されたもの、フィルムに焼き付けられたものを通して僕たちは見ているのだ、ということが明らかとなります。そして雨宮兄の焼身自殺によってカメラかフィルムが焼けてしまい、次の第10話はモノクロで我慢してね、と(本当か?)。

屋敷が炎に包まれる光景を、『ef』では定番となりつつある極端な長回しで描く今回のクライマックスシーン。カメラが焼けて、画面が徐々に黒くなっていくのに合わせてフェードアウト、という展開。
しかし、『ef1』の第7話では大きな効果を発揮したこの技法なんですけど、繰り返し使われると、映像の基本はやはりカット割りだよなぁ、と思わずにはいられません。一回きりのネタでよかったのではないかと……。今回は間に短いカットを挟んでリズムを作ろうとしているのですが、基本となるカットがこのような引いた構図ではなく、せめて火村の表情がわかるようなものであれば、モンタージュの効果が出て面白かったのになぁ、と思います。


久瀬修一・羽山ミズキ編は、今回はさくっと済ませましょう。
ストーリィについては第11話でまとめてお話することになるでしょうが、久瀬と千尋の立ち位置は基本的に同じです。千尋は自分が消えるために物語を描きましたが、消えたくないから描けなかった。久瀬は消えるために人間関係を清算しましたが、消えたくないからミズキの誘いを断れなかった、という感じで。どちらかが本心、というわけではなく、どちらが真実だと思い込めるか、という問題。再帰性決断主義、と難しく語ることも出来るのですが、僕はむしろ「絶対的な正しさがないからこそ、自分で選ぶことが出来るのだ」とあっさり言い放つ「軽やかさ」を評価したいと思っています。

前半はメトロノームの音に合わせた久瀬の独白で話が進んでいきますが、メトロノームの役割は一定のリズムを刻むこと、均質な時間を生み出すこと、という点で、現在の久瀬の願望を象徴する道具であると言えます。彼のドラマはリズムを乱されることで始まり、また別の騒音で乱されることで方向を転換します(突然鳴り始める時計のアラーム、玄関のチャイム)。問題としては、リズムに緊張感があるのかどうか、言い換えれば乱されることでエモーションが生まれるだけの強度を持ったリズムが作れているのか、という点が挙げられるでしょう。海岸でバイオリンを弾く久瀬にミズキが遭遇する第3話はそこが良くなかった……と、思い出したので書いておきます。

仮面の眼差しを受けることで、「見られる対象」として客体化される久瀬。彼を他者の視線から守るために存在していた仮面が彼を見ている、という転倒。ただ、仮面を奪われることで久瀬は初めて自分自身を見ることが出来ました。仮面は他者の視線を遮ると同時に、自分の視線も制限し、自分を見えなくするものだからです。千尋の眼帯も同じような機能がある、と僕は思っています。