『ef - a tale of melodies.』第5話の註釈と雑感

マジパネェっすね雨宮先生!!!完全にスタンド使いじゃないですか(スタンド名「ザ・ワカメ」能力:煙草を格好良く吸える)。もうね、今後先生が何をしても許せます。格好良いもん、仕方ない。他にもいろいろサプライズがあったのですが、全部吹っ飛びました。ワカメ祭りだ!
そんなどうでもいい話はさておき、第5話の註釈と雑感です。

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前作『ef - a tale of memories.』(以下『ef1』)の麻生蓮冶・新藤千尋パートにおいては場面転換の度に表題を付け、全体として麻生蓮冶の回想(厳密には彼の書いた小説の映像化)という形式を取っていました。いわば、三人称的な客観視点の中に一人称的な構造を隠していたわけです。多くの一人称小説が過去形の語り口による「物語が全て終了した時点における主人公視点」を取り、登場人物としての主人公と語り手としての主人公との間にわずかな空白を保っている。このような性質から、書簡体小説にはその空白を主題としたものが多く存在します(例えば夢野久作『瓶詰地獄』、あるいは「語り手が犯人」というミステリィ小説)。
前述の麻生蓮冶・新藤千尋パート、そして『ef2』においてもやはりその空白が問題とされています。それを端的に表現するならば「なぜ語り手(=主人公)は物語を語ったのか」ということであると言えるでしょう。『ef2』第1話冒頭において「繰り返す思いと、時間と空間を隔てたその先に求める、それは―」と物語を総括する火村。この時点を語り手にとっての「現在」であるとするならば、『ef2』という物語はその全体において「現在」へとたどり着く過程であり、火村夕・雨宮優子パートも久瀬修一・羽山ミズキパートも等しく「過去」です。両者をほとんど区別しないぶっきらぼうなカッティングはその辺の事情に由来しているのではないか、と。『ef1』では蓮冶パートのみであった表題が、『ef2』では火村、久瀬の両パートで用いられている(そして番外編的な広野紘・宮村みやこパートでは用いられていない)のも同じ理由なのかもしれません。
しかし、そこで忘れてはならないことは、上記のような火村による三人称的視点が、実際の物語叙述においてはあくまでもその舞台(日本の音羽と、オーストラリアの音羽)に内在する一人称として現れるのだ、という捩れです。第5話の冒頭でオーストラリアに新藤景が現れ、OPを挟んで時間を巻き戻し、日本にいる彼女がオーストラリアを訪れるまでの経緯が描写されます。これまで近似した時間内においては回想を用いずまっすぐ時間を流してきたにも関らず、「時差もない」複数の舞台における時間がそれぞれ特権化され、厳しく対立する。いえ、むしろ起点としての「現在」が専制的に振舞うからこそ、過去は主観的に語られるものとして現在からの断絶が意識され、それによって時間は流れるものとしてだけではなく、積み重なるものとしても理解されるのです。流れる時間と、積み重なる時間。このふたつの対立が緊張感を生み出し、アクロバット的な方法によって統合されることによりカタルシスが発生します。
(余談ですが、OPサビ前の背景に20・10・5・3・0と数字が順番に現れますよね。20年前に音羽が震災に遭い、10年前に火村と優子が再会し、0年前に久瀬とミズキが出会った。ということは、5年前は千尋が事故にあった時期ですね。『ef1』では4年前と言ってましたが、あれから1年経ったわけです。では、3年前に何が起こったのでしょうか?)


前置きが長くなりましたが、本編の話に移ります。
  
OP後の映研部でのやりとりは、そのあとの新藤景・雨宮優子の対話にとっての前振りに当たります。まるで映画のような、夢か現実か判然としない不思議な時間。それを強調するためにも、準備の場所である映研部は徹底して日常的なものとして描かれています。ガリガリと作動音を響かせるパソコン、過剰なほどノイズを混ぜたモニタ。ニュース報道において素人が手持カメラで撮影した映像が「真実らしい」と好まれるように、ノイズが多く、加工されていない映像に日常性・真実性を覚える感覚が利用されています。それと、ローアングルで映研部長の下半身を映しているカットは、カメラという「手段」が明示されることで自然さが取り除かれ、多少の皮肉を感じさせるものとなっています(こういうのが見たいんでしょ?という風な)。
ところで「映研史」って『映画史』のパロディ?考えすぎか……。
  
新藤景・雨宮優子の対話において特徴的な点は2つ。1つはキャラクタと背景の連続性が無視されていること、もうひとつは「それは、本当に治らない傷なのですか?」と問いかける雨宮優子がフレームの外に配置されていることです。景が振り返ると、優子の姿は羽となって消えている。『ef』におけるロングショットの背景描写の機能とは、背景それ自体によって語らせることと、声を遠くから響かせること、つまり具体的な体から声を切り離しナレーションと同等の特権性を与えることにあるのではないか、と思います。

今回の火村夕・雨宮優子パートは、とにかく雨宮兄が格好良かったのひとことに尽きます。彼が酷いやつなのは間違いないのですが、極端な陰影と相手を突き刺すようなライティングの効果と相俟って、強い凶暴性を感じさせる映像となっています(広野凪がミズキに向かって「迷惑なんだ」というシーンも同じ)。あと、ジョジョ立ちもしていましたね……。
ライティングのデタラメさについては既に多くの方が指摘していますが、これもまあ、アニメの伝統に忠実と言えばその通り。光源を画面内に配置しないことで陰影の不自然さをごまかすというのは一般的な技法です。背景と人物が別々に描かれているためそうせざるを得ない、という点ではエロゲの背景と人物の関係も同じ。『ef』はそれを逆手にとって、完全に背景の「模様」にしている場面がちらほらと見受けられます。例えば久瀬修一が自宅で広野凪に話しかける場面。壁にかけられた仮面に、光の十字が切られています。お前の家はどうなってるんだ!と言いたいところですが、実在しない家なんだから仕方がない。
そもそも背景と人物の境界が非常に曖昧です。衣食住のうち、衣と住が厳密には区別できないのと同じようなものでしょうか。


さて、この第5話ではアニメオリジナルの設定を中心に、比較的ほんわかとしたエピソードが描かれましたが、『ef1』の例で行けば第6・7話あたりで地獄を見るのであり、覚悟だけはしておいたほうが良さそうです。今回登場しなかった「隠しヒロイン」麻生蓮冶は何をしているのか?雨宮先生はやはり変態なのか?まさかの大逆転・凪お姉さんエンドはあるのか(ねーよ)?などなど、目が離せません。
そんなわけで、続きはまた来週。