『ef - a tale of melodies.』第1話についての註釈と雑感

『ef』という作品については、原作前編からアニメ第1期、原作後編とその世界を広げていく度ごとに、それなりの文字数を費やして語ってきました。最近もアニメ第1期の総集編が発売された際に物語構成について言及しているので、それとの重複を避けるという意味でも、導入は簡単に済ませたいと思います。詳しくは過去記事を参照、ということで。
念頭に置いておくと面白いポイントとしては、「Two,only two.」あらゆるものが対になっていること、演出に象徴主義的な手法(表現主義ではなく)が用いられていること、僕たちがその均質性を疑わない「時間」や「空間」が巧みにずらされていること、以上の3点が挙げられるかと思います。というか、第1話で蓮治が作品の舞台を「オーストラリア」と言ったことを、感想書いてる人たちの大半がスルーしているのが面白かったですね。原作を読んでいる人はみんな気づいているようですが……。
知っている人には聞こえるけど、知らない人には聞こえない。「知らないこと」は決してニュートラルな状態ではないのだということに思いを遣りつつ、これから『ef - a tale of melodies.』という作品に自分なりの「註釈」を付けていくことにしましょう。まだ第1話なので「見て聞いてわかること」を中心に書いていきます。

まずは冒頭、火村夕のモノローグで「音羽という名の二つの街」と、いきなりとんでもない事実が明らかとなります。この作品では第1期・第2期の両方で2つの物語が描かれているわけですが(つまり合計4つの物語が存在する)、それぞれの物語の登場人物が直接出会う描写が無い以上、彼らが同じ「音羽」にいて、同じ時間を過ごしているのだという証拠は存在しないわけです。原作では終盤まで引っ張られた「トリック」でしたが、隠そうという気はなかったようで、伏線はあからさまに張られていました。アニメでも冒頭からそれを教えることで、空間と時間の均質性に疑いの目を向けさせようとしているように思われます。
なぜそんなことをする必要があるのか。これは以前の記事でも書いた話ですが、『ef』という物語は「生老病死=止むことのない時間の流れ」と「人間の意志」の対決が中心的なテーマとなっています。その端的な表現が人為によって時間の流れを変えること、つまり時系列をバラバラに組み替えることだと言えるのではないか、と。この話は今後の展開を見ながら考えていくことにしましょう。


ノローグが終わると時間は過去へ、学生時代の火村と雨宮優子との出会いが描かれます。屋上にいる優子の飛ばした紙飛行機が、火村の足元へ。紙飛行機が第1期から引き続きキーアイテムとなっていることについては説明不要でしょう。この場面では、右から飛んできた紙飛行機が、右から歩いてきた火村の足元に落ちてきます。つまり途中で反転しているわけですが、飛行機も火村も両方舞台の上手(右側)から出して存在感をアピールしたかったのではないだろうか、と推測。また、火村に向けてまっすぐ紙飛行機を飛ばしたわけではない、でも結果的には届いたという、人為と偶然が半々なふたりの出会いを表すことにもなっています。
提供クレジットを挟み、時間は現代へ。火村は酒を飲んでいますが、会話の相手である久瀬は何も口にしていません。この場面での会話は色々なことを暗示しているわけですが、今書くべきことは特にないでしょう。強いて挙げるなら、ふたりの上半身を切り返しで捉えるシークエンスで、右を向いている久瀬を右に寄せて、左を向いている火村を左に寄せて配置されていたのがやや異彩を放っていました。

向いている方向に余白を作ったほうが構図としては安定するのですが、不安定なほうが面白いという場合もあるわけです。後編の終わりごろ、テロップと合わせて描かれる久瀬とミズキの切り返しも要注目。


「俺は、あのころから変わっていないのかもな」という火村の台詞と共に画面は暗転し、ふたたび過去編へ。OPにも登場する重要人物、雨宮明良が登場します。位置と色彩の対比で火村と対極的な存在であることを示そうとしていることは一見して明らかです。

彼は火村に向かって「芸術は大変だ」と語りかけます。この台詞は『ef』という「現象」への自己言及として捉えることが出来るでしょう。「芸術に携わるものも、その周りの人間も、分け隔てなく巻き込んでいく。だから火村くん、君も巻き込む側になると楽だぞ」。雨宮明良という人物については機会を見つけて詳述したいと思います。
次のシーンでは過去編におけるもうひとりの重要人物、広野凪が登場。彼女は一部の人に大人気なキャラクタなので(僕も大好きです)、そのうち大活躍するでしょう、たぶん。ふたりが広場で会話をしている状況をロングショットで捉えたカットでは、背景の片隅に瓦礫がつまれている点に注目。

ふたつの音羽のうち「焼けた瓦礫の上に築かれた、本物の街」がこちらということですね。それから優子が近づいてきて、凪は怒って帰ってしまう(この辺りに明らかなつなぎ間違いがあるのですが、それは置いときましょう)。直後のシーンで優子は凪について「素直でいい女性ですよ」と評するのですが、これは非常に的確な評価であると同時に、エキセントリックな言動の目立つ優子が実はしっかり人間観察をしているのだということを示唆しています。第1期の宮村みやこと近いかな。舞台は海ですが、これは後編最初のシーンに繋がります。

OPを挟んで後編へ。久瀬のバイオリンをBGMにして、羽山ミズキが見ている海の夢が描かれます。そういえば、森博嗣の『すべてがFになる』に「人魚の夢を見るようになった」という一節がありましたね。無機物も含めた全てのものに固有の時間があるとすれば、海の時間はおそらく人間よりも早く流れているのでしょう。時間の止まった音羽という街との対比にもなっている。その海の中で、ミズキは過去から現在へと一瞬でたどり着きます。具体的には「ミキ」と呼びかける優子の声が徐々に「ミズキ」と呼ぶ麻生蓮治の声に変わり、彼女は覚醒する、という流れ。「ここ、どこ?」というミズキの問いに対して蓮治は「オーストラリア」と答えるのですが、これが冗談でないことは先述したとおり。でも、第1期と辻褄を合わせられるのかな……。


鳥のように手を広げるミズキ。実際、彼女は鳥のような存在です。飛ぶための翼を持っている、という意味で。優子もやはり翼を持っていますが、こちらは手の届かない場所に行ってしまうという意味でややネガティブな感じ。
ところで、この第1話だけで既に何度も身体の一部が空色になる表現が使われています。どうもキャラクタの本質を視点キャラクタが見出した瞬間に使われているようですが、特に髪だけが透けてみえるのは、前編クライマックスの優子と対になってているのかもしれません。


久瀬を紹介するよう蓮治に詰め寄るシーンでは、広角レンズを用いて距離感を強調。顔も大きく見えるし、蓮治の感じている圧迫感を上手く表現できているように思われます。このシークエンスで繰り返し現れるロングショットとの対比という点においても非常に印象的。
そして舞台は久瀬の家に移るのですが、こちらは割とあからさまな隠喩が多く、あまり書くことがありません。近くにいるようで遠い関係だったふたりが段々近づいていく、というのが大まかな流れ。

一人称の変化によってふたりの新密度を表しているのですが、久瀬が最初に「俺」と名乗るのは下ネタを言うときだった、というのが非常に彼らしい。また、会話の途中で目覚まし時計のアラームがなったのは、彼の活動時間が普通とは大きく異なること(つまり夜型)、ミズキの前で格好をつけるためにそれを隠していることを表しているのだろうと思われます。あるいは、薬を飲む時間だったのにそれを無視した、ということも考えられるでしょう。いずれにせよその結果、夜になって久瀬は体調を崩したわけですが、プライドが高く、しかもそれを表に出さない彼の気質がよく表れています。
ふたりが最後に「また明日」と言って別れるのは、蓮治と千尋の関係と同じ。ただし、なぜそれが重要かという点については大きく異なります。詳しくはまた今度。


以上、第1話をざっと眺めてみましたが、この時点ですでに物語の核心部分が明かされていることに驚いた方も多いのではないでしょうか。しかしまあ、『ef』はそもそも謎への興味で読者を引っ張っていくような種類の作品では全然ないので、ある意味潔いのではないかと。地味だ地味だと言われた第1期序盤に対する反省もあるのかもしれません(僕は第1話が一番好きなんですけどね)。
ロングショットとクローズアップの往復運動を基調とした演出はカット毎の落差を強調し、理知的なレイアウトと合わせて非常にわかりやすい。「新房組」としてひと括りにされることの多い新房昭之監修・大沼心監督のコンビですが、『コゼットの肖像』あたりを念頭に置いておくと両者の作風に明確な差異を見出すことが出来るのではないかという気がします。新房昭之監督作品では『コゼットの肖像』が一番好きなんですが、ああいう作品はもう作らないのかな……。