『もしも明日が晴れならば』―家族の食卓

White Lips『凪』(『もしも明日が晴れならば』挿入歌)
  わかっていた 
  こんな時間がずっと続くものではないって事は
  幕が下りて人が去ってく いつもの日々へ
  たったひとつ願いが叶うならば どうか幸せな旅立ちを
  いつの日か僕がその扉を開く その時まで
  そしていつか遠い未来に 再び会う日まで


当たり前かもしれませんが、人間は他者との関係の中で生きています。「私と彼」「私と彼女」そして「私と私」。複雑に絡み合う他者との関係性の束としてのみ「私とは何者か」という問いが成り立ちます。そして他者との関係が「私」を構成しているということは、つまり、「私」と「あなた」の関係はその両者から独立して存在するのではなく、常に両者の一部に重なる形で存在している、ということです。
親しい人を亡くしたとき、どうして魂が傷つけられるような痛みを覚えるのか。それは、強制的に関係を絶たれることにより、文字通り自らの一部を失うためではないか――と、僕は考えています。

あの日は、確か……
とても暑い、夏の日の出来事だった。
明穂は季節はずれの風邪をこじらせて――
あっけなく死んだんだ。

この物語の冒頭で訪れるヒロインの死は、その家族に大きな喪失感を与えます。彼女に対する思いに決着をつけることが出来ないまま、ただぼんやりと時間をすごしていくのです。
しかし、悲しみに沈んでいても現実はがむしゃらに訪れます。お腹だって減るし、宿題だって片付けなくてはいけない。いや、むしろそんな「当たり前の」日常に引っ張られるように、普段のリズムを取り戻していくのでしょう。
物語本編のファーストシーンは主人公と明穂の妹・つばさが食卓を囲む場面から始まります。何か劇的なことがあったわけではなく、ただ日常を過ごす中でふたりは少しずつ癒されていく。そんな描写がなされています。
ところが、明穂は帰ってきました。幽霊となって。
明穂が帰ってきたこと、それは主人公とつばさが立ち直る上で決して必要なことではありませんでした。彼女はただ、寂しいから帰ってきただけ。
(何で帰ってきたんだよ)
そう思うには、明穂はあまりに「良い人」過ぎる。中途半端に癒された気持ちは宙に浮いたまま、主人公と、明穂と、つばさは再び3人で食卓を囲むようになります。


この作品に限らず、「家族」を描いた作品では家族で食卓を囲むシーンが頻繁に描かれる傾向にあります。keyの諸作品なんてその典型的な例。逆に、ここで名前を挙げるのがちょっと憚られるようなゲームでは、主人公の孤独を強調するためにひとりでカップ麺を食べるシーンが脈絡なしに描かれる、なんてこともあります。食卓は家庭の、そして日常の象徴という風に扱われることが多いようですね(その点、『孤独のグルメ』という作品は逆説的。id:ashizuさんが素晴らしい記事を書かれているのでそちらも参照のこと)。
さて、帰ってきた明穂を交え、三人は食卓につきます。しかし、明穂は幽霊なので食事を取ることが出来ません。キスやセックスは出来るのに(だってエロゲだもん)。
彼女の魂は食事によって癒されることなく、ゆっくりと磨り減っていく。そして……。と、日常の象徴である食事を取ることの出来ない明穂は、主人公たちの日常にとってあくまでも部外者なのです。

岡本倫エルフェンリート』第12巻(括弧内はヒューゴ・ヴォルフ『妖精の歌』の引用)
  「谷の方からナイチンゲールが僕の名前を呼んでるんだ
  それともジルペリットが呼んでるのかな?
  あの明るい窓々 何だろう きっと結婚式をしてるんだ
  みんながごちそうを囲んで 楽しそうに踊ってるんだ
  ちょっとだけのぞいてみよう」
  私は――
  仲間に入れてもらえないから――

深く考えずに引用しましたが、そういえばオチのつけ方も『エルフェンリート』に似ていますね。残酷なのは時間、最後に助けてくれるのも時間。そんな物語です。


そのほか気になった点を箇条書きで。
・後ろ向きの立ち絵があるのは非常によろしい。あって然るべきものだと思うのですが、何故か珍しいんですよね。
・挿入歌の『凪』はとても良い曲だと思いますが、イントロがあればもっと良かった。会話が盛り上がっているところにいきなり「ああ行かないで〜」で、どっきり。
・エロシーンで豹変する主人公。こいつ……。
中古価格高っ!ごめんなさい、僕は友人から借りました。
・え?この作品ってlightが製作したんじゃないの?(いまさら)

もしも明日が晴れならば

もしも明日が晴れならば