『コゼットの肖像』についての雑感

コゼットの肖像 Vol.1 [DVD]

コゼットの肖像 Vol.1 [DVD]

化物語』の放送開始も間近に迫ってきたので、予習の意味をこめて新房監督の『コゼットの肖像』を購入。ずいぶん前に1度観たことがあるので、復習と言うべきでしょうか。どちらでも良いですが、素直に買ってよかったと思えるアニメでした。新房昭之監督作品で一番面白いとは言いませんが、一番「らしい」のは確か。極端な陰影の付け方、舞台から人物を疎外するようなレイアウト、描くことよりも描かないことで何かを想起させる手法、そして強度のあるモンタージュ。これらの手法(特に最後の項)は『コゼット』において頂点に達している、と僕は思います。

物語の概略について。骨董屋で働く主人公はある日、ヴェネチアン・グラスのプリズムを通して見える景色の中で西洋人形のような少女が「生活している」ことに気づき、その姿に魅せられる。それから7日目の夜、コゼットと名乗る少女はグラスから抜け出し、主人公に「血の契約」を迫ります。コゼットが呪いから解放されるために、主人公はあらゆる苦痛に耐えなければならない。「人ならぬ存在」であるコゼットに恋した主人公は、それを笑顔で受けいれる……という話。命がけの恋、と言えば陳腐に聞こえますが、それほど単純な話でもない。むしろわかりにくい。
特に印象的なのは、限られたシーンを除けば主人公とコゼットは同一のフレームに収まらず、モンタージュによってのみ「主人公はコゼットを見ている」ことが示される、という点です。例えば「血の契約」が交わされる直前の、コゼットの宿るグラスを取り返すために、それが売却された屋敷に主人公が乗り込むシーン。屋敷の隅で悲しそうに座っているコゼットが描写され、続けてそちらを向いている主人公の姿がロングショットで描かれながら、主人公の視線の先にコゼットは存在しません。血の契約が交わされるまさにその時まで、主人公とコゼットは互いを認識しながら出会うことが出来ないのです。
主人公が何かを見ようとするショットと、コゼットがどこかで遊んでいるショットの間には根源的な断絶があるにも関らず、モンタージュによって無理やりに繋がれ、音楽や効果音の連続性がそれを補強する。その断絶の激しさがモンタージュの印象をむしろ強めているのですが、この作品における主人公の遍歴は断絶を断絶として確認し、同一のフレームの中で描かれることによってのみ二人は出会うことが出来るのだ、という結論を導き出します。そのために主人公は苛酷な罰を受けなければならず、それによって一層「二人が出会えたこと」の価値が高められる、という構造。


ただ、僕が一番気に入っているのは冒頭のシークエンス、具体的には喫茶店での会話から骨董屋に帰るまでの一連の流れです。主人公が喫茶店でお茶を飲んでいると、窓の外から小学生が店内を覗き込んでいる。それを見つけて、主人公が笑いながら手を振る。それを見た僕は「うわ、何気に怪しいぞこいつ!」と思わずにはいられませんでした。このあからさまな怪しさが、同じ時期の作品で、同じような世界観を持ちながら『月詠』とは全く異なる印象の作品に仕立て上げているのでしょう。
その後雨が降り出し、主人公は走って骨董屋へと向かいます。その途中の道筋に張られた「目」のポスターがまた格好良い。コゼットを見る主人公はまたコゼットによって見られている、ということを示しているわけですが、そのような平凡な解釈とは無関係に格好いい、と強調しておきましょう。
そして骨董屋にたどり着く。Y字路のちょうど股の部分にそれは立っていて、境界線、ということでしょうか。車が突っ込んできそうで、あまり長居したくない場所ですね。

改めて観ると回想とそうでないシーンとをほとんど区別しないカッティング、プリズムを通した現実と明瞭なコゼットの世界、と撹乱的な要素が多く、確かにわかりづらいなと感じます。コゼットの世界には音がなく、主人公のいる世界には音がある。会話している人物からカメラが離れるほど、極端に音が小さくなってしまうのは、設定の持つ非日常性を音のレベルで回復しようとしているためでしょうか。
あとは終盤、あと、コゼットが返り血を浴びるシーンで、すぐに血が自然と消えてしまうところなんかも良かったです。ホラーではなく、あくまでもゴスロリ。少女を血で汚したいわけではないのだ、と。
コゼット役の井上麻里奈はこれがデビュー作だと聞いていますが、違和感は全然ありません。驚かされたのはエンディング曲。え、これ本当に井上麻里奈が歌ってるの?というくらい、本編の幼い声とはギャップが大きかったです。
続きは来月あたりに。