『らき☆すた』は日常を描いたのか?

「こんなにスポーツ出来るのに、何で運動部とかに入らないの?」
「だって部活に入るとさぁ……ゴールデンタイムのアニメが見れないじゃん」

あずまんが大王』が「ありそうでありえない日常」を描いたとすれば、この『らき☆すた』は「本当にありそうな日常」を描いている、と感じさせる点で異質な作品であると言えるのかもしれません。「チョココロネは頭と尻尾のどっちから食べる?」なんて「たい焼きは頭と尻尾のどっちから食べる?」と同じレベルの、ごく日常的な会話ではありませんか。
このような固有性のない繰り返される日常を「物語」として成立させているのは形式であると言えます。そもそも京アニの作画が賞賛される原因として、単純に作画が優れていることと共に、形式を知覚させること、「ここは作画に注目だ」と視聴者に教えるような作品構造をとっていることが挙げられるでしょう。『らき☆すた』においてはOPとだけではなく本編においても「形式」というものが大きな意味を持っているのです。
日常(らしきもの)を物語として成立させる形式というのは、ひとつひとつの会話からも読み取ることができます。彼女たちの会話を聞いていても、文法的には実にしっかりとしていますね。現実の会話なんて省略だらけでデタラメです。
もうひとつが視点の問題。最近いくつかのブログで「イマジナリーライン」が扱われていましたが、本来ではなんでもない出来事にイマジナリーラインを超えさせることで過剰な意味を与えようとする、そのような意図が見えてきます。
参考:http://xn--owt429bnip.net/2007/04/rakisuta1.php
繰り返される日常に特別な意味を与えること、特に近年の「萌えアニメ」においてはこのテーマが重要な意味を持っています。しかし、ここで注意しておきたいのは、特別な意味を与えられるのが「日常それ自体」ではなく、日常の中に生きる登場人物たちであるということです。
「チョココロネはどっちから食べる?」という議論、その中では登場人物たちの嗜好というものに大きな意味が与えられます。それは「あなたであることに意味がある」というアイデンティティへの肯定を示している、と言えるのではないでしょうか。「オタク」な主人公に向けられる優しい視線とも関連して、後でまた論じてみたいと思います。
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